司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 〈「適正な刑事裁判の実現」という論法〉

 一般に国民の司法参加が論じられるときには、制度設計上必然的に論じられることは「適正な刑事裁判の実現」などという極めて限定された命題ではなく、それに優先して、一般に国民を裁判に参加させる場合に国民に対しいかなる義務を課し、負担を強いることになるか、一般国民という素人は正当な判断が可能か、素人裁判官は玄人裁判官とどのような関係に立つのか、その役割分担をどのように定めるかなど、制度設計上の多様な問題があり得る。

 そうであれば、それら一つ一つについて綿密な憲法上の検討が必要になる。判決の論理である、裁判員という素人が参加しても「適正な刑事裁判の実現」がなされるかという問題だけを論ずるのであれば、それは玄人裁判官がリードする以上その実現に支障はないという結論が出されることは、極めて見え透いたことである。判決は、それ故にその論法を採用した疑いが強い。

  国民参加といっても、現に行われている調停委員、司法委員、参与員など多様な形態があり、それらについては合憲性が俎上に載せられるようなことはなかった。合憲性が問われるのは、司法への一般的な国民参加問題ではなく、その制度選択及び具体的制度設計の内容如何である。

 司法制度改革審議会の最終答申書でさえ「具体的な制度設計においては、憲法(第六章司法に関する規定、裁判を受ける権利、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、適正手続きの保障など)の趣旨を踏まえ、これに適合したものとしなければならないことは言うまでもない」と記述している。その記述自体、参加が求められる国民の立場に対しての配慮を明示していないなど不十分だが、判決は、その記述のうちいわば適正な刑事裁判さえできれば憲法上問題がないと断じているのであり、極めて偏頗な論理の展開と評する以外にはない。

 裁判員制度について憲法判断をする場合、その具体的制度の骨格たる構成を先ず確認し、憲法にその存在の根拠を見出し得るか否かを論じることが肝要である。

 〈具体的制度設計の違憲性判断を素通り〉

 裁判員法の定める司法への国民参加制度は、裁判員を一部の例外を除き衆議院議員の選挙権を有する者の中から無作為にくじで選任するものであること、裁判員は裁判官と共に死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件等重大刑事裁判に関与し公判に裁判担当者として出席し評議・評決に独立して関与するものであること、一部の例外を除き裁判員となることを罰則により強制するものであること、裁判官は裁判員の判断に拘束される場面もあるというものである。

 繰り返すが、これらの骨格を備えた具体的な制度が、憲法の定める司法制度の許容するものか否かが問題の本質であり、国民の司法参加一般や、陪審制・参審制が憲法の許容するものか否かは、ここで論じられるべき対象ではない。

 判決の論理は、前述のとおり、国民の司法参加は憲法の許容するものか否かを先ず一般的、抽象的に論じ、憲法には明文の規定はないけれども、司法への国民参加は合憲であると断じ、国民参加の具体的制度設計に違憲性があるか否かの判断は素通りして、制度の骨格たる部分が「刑事裁判」に関する憲法上の要請に適合さえしていれば良いという判断過程を辿っている。

 問題の中心は、前記裁判員制度の骨格として定められているもの、特に憲法に明文の規定がないのに一般国民に対し重罪裁判で強制的に裁く立場に立たせること、被告人にかかる裁判員の裁きを受けさせる形の国民参加が憲法上許容されるか否かであるのに、判決はその判断を回避している。



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