司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 〈赤堀政夫さんの言葉〉
 

 前記の4死刑冤罪事件の当事者で、現在(2020年12月現在)生存しておられるのは、島田事件の赤堀政夫さんだけだという。

 赤堀さんは、2009年5月傘寿のお祝いの会に先立って行われた記者会見で、同月21日から実施される予定の裁判員制度について、「法律を知らない一般の人に判断できるか分からず、冤罪防止の観点から反対である」との意見表明をしたという(西日本新聞2009年5月19日)。ところが何という偶然かその赤堀さんが2012年に裁判員候補者に選ばれ、同年10月に裁判員選任の呼出状が届いたという。70歳を超えていることを理由に選任を辞退したが質問票への回答には「裁判所は信用できない」等と記したといわれる(日本経済新聞2012年11月16日)。

 人が人を裁くことは「やおいかんですよ」、それは当然のことである。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」という聖書の言葉は多くの人が知っている。聖書には、裁判に関する記述が多い。旧約聖書申命記には「裁判は神に属することだからである」という記述がある(第1章17節)。

 裁判という行為は過ちの許されないことである。「人間のやることだから仕方がない」は通用しない。しかし、前述のように冤罪事件を知れば、裁判の訓練を受けた者とてその過ちから抜けることはできないことを知る。裁判は本当に「やおいかん」ごとである。赤堀さんが言うように、「一般の人に判断できるか分からない」ものである。

 裁判員の仕事は、民主主義国家の主権者として「国民の一人一人が統治客体意識から脱却し、自立的で社会的責任を負った統治主体として互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画」すべき性質の仕事ではない。やおいかん仕事を過料の制裁で脅して従事させるなどということは、憲法は認めていないし人倫上も許されないことである。

 誤った裁判によって死刑判決を受け、34年余も獄舎暮しを強いられ、日々死の恐怖にさらされた免田さんの言葉や、前述の赤堀さんの言葉を反芻し、死に体の裁判員制度を完全に葬り去るべきである。


 〈裁いた者としての責任〉
 

 冤罪事件を考えるとき、いつも頭の片隅に引っ掛かることがある。それは、最終的に冤罪と分かった事件に関与し有罪判決をした事実審裁判官の責任である。ネットを検索すると、そのことを論じているものを見ることがあるけれども余りまともに取り上げられることはない。

 多くの冤罪事件は、前述のように一旦なされた自白がのちに撤回され否認に転じた事件である。その撤回の段階で被告人についてはその有罪性に疑わしさが生じたに違いない筈であるが、裁判官はその他の証拠からその疑わしさは消滅したと判断して有罪の判断に到達してしまい、結果的に冤罪を生じさせたことになる。その判断過程において、一旦自白したという事実にバイアスがかかり、自白撤回前の有罪の心証を消すことができず、当初から否認されていた事件のような心証を抱くまでには至れなかったのではないかと推察される。

 そのことは、結果論とはいえ、被告人に対し疑わしきは被告人の不利益に判断するという過ちを犯したということであり、裁く者としての責任、それが法的責任か道義的なものに止まるかは別として、何らかの責任は問えないものかは、やはり検討されるべきではないか。自白に関与した捜査機関の責任だけで事足れりとすることは、やはり問題ではないかと思う。

 袴田事件一審構成裁判官の一人であった熊本典道裁判官は私と同期であるが、彼はその主任裁判官としてその評議において無罪の主張をしていたことをのちに明らかにし、合議体が有罪、死刑の判決をしたことによって、良心の呵責に耐え兼ね判決約半年後に裁判官を辞したと言われる。

 2020年11月11日に彼が亡くなったことが報じられた。冤罪事件の有罪判決に関わったことのある裁判官は、彼の行為、彼の死をどう受け止めただろうか。本当に人を裁くことはやおいかんごとだとつくづく思わされる。



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