司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 インターネット上、とりわけSNS上での誹謗中傷や無責任な言説に対する対策として言われてきた、原則実名主義の必要性をいう論調が以前よりも聞かれなくなりつつある。匿名性そのものが、責任をあいまいにしているという元凶説ともいえるそれが、なぜ、後退しているのだろうか。

 その最大の理由は、実名を公開するリスクへの意識の高まりである。個人情報の流出や、いわゆる炎上、さらにいじめ、ストーカーなど現実世界でのトラブルにつながることが、より広く認識され、実名公開への危機意識が高まったことにある。さらには、実名による「なりすまし」の危険性を指摘する声もある。

 しかし、これは見方によっては、ネット上での無責任発言、というよりも、発言者が発言への責任をあくまで引き受けるという根本的な発想までも、むしろ不当な批判の回避という目的のために、手放すこと。いわば、その意味では、不当な行為の前に断念せざるを得ない現実を意味する。

 それはいま「偏向」という点で、たたかれ出している既存メディア、いわゆる「オールドメディア」との比較でも言われてきた。実名を明らかにし、社名を背負い、責任の所在を明らかにして発信しているメディアと、自由に誰でも発信できて、まさにメディア偏向性をあぶりだしているかのようなネット情報。

 片やフェアに記事を取り上げない「偏向」の懸念、対して匿名性から責任の所在が不明な虚実入り混じった、まさに玉石混交への懸念の間で、情報の取捨を迫られているのが、今の大衆である。

 しかし、基本に立ち返れば、実名主義はそう簡単に引っ込めてよいのであろうか。実名主義は責任の所在を明らかにすることで建設的で健全な議論を促す可能性がある。炎上や攻撃の対象化への懸念もいわれるが、実名主義は逆に基本的に批判を受けて立つ姿勢、むしろそこまで確固たる覚悟の上にも発信している、という基本に立つ。いわば、根拠なく、ただ攻撃的に迫る言説と始めから違う立場を表明している。

 もちろん、その立脚は、無責任の排除だけでなく、誹謗中傷、名誉棄損、脅迫といった違法行為への一定の抑止効果も期待できる。

 一方でデメリットとして、実名発言での身バレによる実生活への影響、個人情報の悪用、発言の委縮といったことがいわれる。しかし、これは本当に実名主義を犠牲にして解決すべきことだろうか。身バレ云々は、むしろ発言者の覚悟の問題であり、むしろ自己抑制がすべて悪いともいえず、委縮を含めて、公正な通報者的発言の保護は、実名を管理者に通告することを条件とする匿名掲示など、別途手段が講じられていい。また個人情報の悪用は、それ自体を問題化すべきで、実名主義が屈服していいこととは思えない。

 たとえ現在のように、匿名が認められ、実名主義が全うされなくても、検閲によって、不当な発言は排除される方向にある、という意見もある。しかし、検閲化は、その基準の恣意性という問題を生み出す。何の説明もにく、どこかどういう基準で消されたのか判然としない状況は、また、それこそ公然と言論弾圧がまかりとおることにもなりかねない。管理者にすべての責任を負わす方向にも注意がいる。

 自由な発信の場所というネット環境の理解そのものの歪みも指摘しておかなければならない。もとより自由な発信といっても、何でも好きなことを発信していいことではなく、そのために匿名が必要という論法そのものがおかしい。いわゆる単なる「お気持ち」、印象、責任の所在不明な情報をながしてよし、と自由でいいのだろうか。

 旧「ツイッター」が登場したとき、これを「つぶやき」と誰かが名付けた。なぜ、これが人に聞かれないくらいに、また、聞かれることを意識してなく発せられた「つぶやき」なのか、という強い違和感を覚えた。思えば、この時からユーザーの勘違い、もしくは誤った方向への傾斜は始まっていたのかもしれない。単なる「お気持ち」はもちろん、内輪話、居酒屋談義でしか通用しないものでも、気楽に、自由に、気にせず、発言していい場が与えられたのだ、と。

 「ネットでの発言は、渋谷の交差点で拡声器で話しているのと同じ」と言った人もいる。ネットで発言することそのもののリテラシーとともに、もう一度、発言の責任に目が向けられるべきだ。




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