この異常な状況を私たちは受け止めきれているのだろうか――。「袴田事件」再審決定には、まず、そんな思いにさせられる。事件発生が57年前の1966年。同年逮捕起訴され、一貫して無実を主張していた袴田巌氏に対する地裁の死刑判決が1968年に出されて以降、1980年の最高裁判決まで死刑は維持され確定。2008年の第一次再審請求の終了を経て、同年提起された第二次請求も、2014年地裁再審決定、2018年高裁再審決定取り消し、2020年最高裁の高裁決定取り消し、差し戻し、そして、2023年の今年3月13日、地裁開始決定を支持する高裁決定。ようやく再審公判と袴田氏無罪を司法が言い渡す日が見えてきた。
人間の生の長さを考えた時、袴田氏に重くのしかかった、「辿りつけない」「修正できない」司法の時間のあまりの長さに、恐ろしさを覚えてしまう。
「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の鉄則が再審にも適用されるべき、とした、いわゆる最高裁「白鳥決定」が出されたのは1975年。死刑再審無罪4事件の再審無罪判決が立て続けに出されたのは1980年代である。この「白鳥決定」からみて、これほど長い時間、結論に辿りつけず、修正もできない事件そのものが、あり得るのだろうか。「疑わしき」が「被告人の利益に」という扱いがされたとは到底思えないばかりか、死刑再審無罪の反省が全くいかされていない、わが国司法の現実に愕然とする。
現状を、いわば結果論であるとして、この事件の経緯に対する捜査側の「正当」な弁明が用意されようとするかもしれない。しかし、今回の高裁決定では、焦点の証拠について、捜査機関のねつ造の可能性まで言及されている。冤罪は作られ、修正もできない、この国の現実は、確かにこの国に存在しているのである。
しかも、改めて言うのもおかしいが、ここで関わっているのは、人の命に関わる、取り返しがつかない死刑である。その重みをもってしても、前記「疑わしき」の鉄則にそって、躊躇することがない、およそ謙抑的ではない司法の姿にみえてしまう。
なぜ、わが国の司法は、「修正できない司法」を修正できないのだろうか。再審の問題が扱われる度に、証拠の全面的開示の必要性が言われてきた。その一方で、そのことが真犯人の処罰に至る道程に影響するといった消極論も存在してきた。しかし、「10人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」の言葉を出すまでもなく、この消極論は、前記刑事裁判の鉄則の根本に違背する。むしろ、前記鉄則が、貫かれるためには、証拠の全面開示は当然に必要なのではないか。
もう一つは、司法改革についてである。いわゆる「平成の司法改革」では、前記死刑再審無罪の教訓がありながら、「修正できない司法」が、まるで司法にとって不都合な「黒歴史」であるかのごとく、一顧だにされていない現実がある。判決まで長期化する裁判について、その原因として精密過ぎた「精密司法」を挙げ、それを反省する立場をとった司法(その過去の価値を省みない根拠性については疑問もあるが)が、何故、再審をめぐる浪費時間の異常さから問題を捉えられなかったのか。
ここでもそれぞれの事件、裁判の経緯による「結果論」という言い訳が用意されそうだが、前記鉄則の存在そのものが、やはりその言い訳を許さないように思えるのである。
無実、あるいは有罪を立証し得ない被告人の立場からすれば、「袴田事件」で示された司法の現実は、明らかに不正義であり、そこに真実解明を阻害する、関係者の意図が介入していたとすれば、限りなく「犯罪的」なものといわなければならない。そういう現実を抱えた司法の、その国の住人であることを、今、まず、私たちがここで痛感する必要があるように思えてならない。