3月27日に行われた森友問題めぐる衆参予算委員会での証人喚問で、「刑事訴追の恐れ」を理由に証言拒否を繰り返した、佐川宣寿・元財務省理財局長に対し、この日、最後の質問に立った丸山穂高・衆院議員は、こう問いかけた。「本日の一連の発言で、国民が知りたい真相を解明できたと考えているか」。これに佐川氏は、次のように答えている。
「(公文書改ざんを)実際にどういう経緯で誰がやったのかについてお答えできていないので、(国民は)満足できていないのだろうと思う。(この点については)まさに裁判、司法の方になる」
この佐川氏の発言を「開き直りともとれる反応」と報じた新聞もあった(毎日新聞)。だが、そもそもこの議員の質問は、あまり意味がないともいえる。佐川氏がこの日、最初に「刑事訴追の恐れ」を持ち出した段階で、多くの国民は、彼が国民の満足を得る回答を述べるために、そこに立っていないことを分かっていただろうし、また、それよりも優先させるものとして、この理由が掲げられていることも明らかだったのだから。
そして、さらに言ってしまえば、彼が本当に刑事訴追を恐れて、この理由で証言拒否を繰り返したのか、それとも別の目的から証言拒否できる、格好の口実として、ここに逃げ込んだのか、も、彼に動かし難い権利(証言拒絶権)が与えられている以上、それを問うことも実質的な意味がないだろう。
ただ、形として、この日、多くの国民には、彼に対する、国会での追及の限界と、あるいは、彼の言の通り、司法に真相解明の場が移り、逆にいえば、司法でなければ、この先は踏み込めないといったイメージだけが伝わったのではないだろうか。
ところが、大阪地検特捜部が虚偽公文書作成などでの彼の立件を見送る方針であるということが伝えられた。そうなると、証言拒否の根拠もなくなり、彼への証人喚問での追及は改めて可能になり、彼も証言せざるを得なくなると考えたくなる。ところが、現実はそうもいかないのだ。不起訴になっても、まだ検察審査会の審査や検察の再捜査開始もあり得る。だから、彼がその気になれば、それこそ容疑となる罪の時効が成立するまで、「恐れ」を理由とした証言拒否に逃げ込めるというのである(前田恒彦・元特捜部主任検事「佐川氏に『刑事訴追を受けるおそれ』がなくなったから再喚問で証言義務あり? 本当か」)。
これは、どういう状態であるというべきだろうか。結局、私たちは、いわば構造的に真相解明が宙に浮く現実を見せつけられることになっていないか。司法に投げられたボールは投げ返されても誰も受けとれないまま、転がることになろうとしているのである。
もっとも、もとより司法の目的自体は、国民が求める、あるいは満足する真相解明ではない。民亊であれば、目指すのは紛争の法にのっとった適正な解決であり、刑事で問われるのは、被告人の刑事責任の有無である。なぜ、そうした事件や紛争が起きたのか、その真実や背景を浮き彫りにしないまま、判決によって裁判が終了してしまうことはいくらもある。それは、しばしば当事者を含めた国民の満足するものではないが、法律専門家は「裁判とはそういうものだ」と返すしかない。だとすれば、政治やジャーナリズムが、改めてなんとかしなければならない、というところにいくのも、お決まりの展開ではある。ただ、一方で、認識不足を何百回指摘されても、おそらくその都度、期待感と裏腹の失望感を大衆が司法に抱くのもまた、現実だろう。
問題は、この真相解明が宙に浮く状態にある。ネット上などでは、今回の証人喚問も、司法の姿勢も、もはやその無力感から、「形式的」「茶番劇」といった言葉で括られる。前記前田氏は、記事のなかで、議院証言法への刑事免責導入といったことで、証人喚問をもっと機能させるという方向も示唆している。こうした方向が適切なのか、あるいは異論もあるようには思う。しかし、今回の問題とともに、この構造的なテーマそのものに向き合い、議論・検討し始めないと、社会の無力感の高まりとともに、国会の権威も、司法の頼りがいも、ともにどんどん失われていくように思えてならない。