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 〈人間の本性と競争原理〉

 理論というか、理屈というか理念、つまりどうあるべきかということと、現実、つまり現に目の前にある事柄や状態とは、異なることなど普通にあることです。そこに修正の必要性が生まれます。理念と現実の乖離という現象です。それをどう埋めるかが問題です。理想と現実の乖離を埋めるという作業は、どの分野においても重要な課題です。憲法の解釈においても、現実をどのようにして理念に近付けるかが課題となります。

 共産主義国家は、弱肉強食を回避し、強い者も弱い者も平等で、幸せな生活を送れる社会を創るためには資本、つまり利益を上げるための事業を起こすのに、必要な設備や原料やそれらを買うおカネは、国家が持ち、国民の労働力で生産し、それから上がる利益は、国民に平等に分配するというやり方が理論的に正しいと考え、実践しました。

 ですが、現実にはその成果は思ったようには上がらず、世界の中では共産主義国家は減りました。どこに問題があるのでしょうか。理念としては、十分に理解できるのですが、結果は必ずしも成功したとは言えない気がします。

 この結果は、共産主義か人間が持つ競争本能、つまり互いに優劣や勝ち負けを競い、それに勝ちたいと思う生まれつきの人間の傾向や能力を無視ないし軽視したからではないかという気がします。

 一生懸命に頑張った人が、他人より成果を上げても、頑張っていない人と同じような利益の配分しか受けられなかったら、やる気をなくすのは当たり前です。それは、一般通常人誰もが持つ人情です。人間の感情として自然です。共産主義の理念は、現実には人の気持ちには受け容れられなかったということになりそうです。

 昼食を出す店は、ラーメン屋、そば屋、カレーライス屋、パスタ屋、定食屋、寿司屋などなど沢山あります。その中から客はどこかの店を選んで、今日の昼食を食べます。客は、「旨い、安い、早い」店を選びます。「不味い、高い、遅い」店は選びません。良いものが残り、悪いものは消える。不要なものや不適当なものは取り除かれます。つまり、淘汰されるのです。競争原理による淘汰です。

 日本国憲法は、この方法を採用したのです。人間の本性、つまり生まれつきの性質や人間の欲望、不足を感じて、そこを満足させようと望む心を無視しては、人間の生活は成り立ちません。

 国家は国民の集まりです。国民は国民の前に人間です。人間の本性を無視する制度には、無理があるのです。共産主義経済体制の国家が減少したのは、ここに原因がありそうです。

 国民に資本を持たせ、国民同士がそれを使って、利益を上げようと、その能力をフルに出し合って、競争すればいいものだけが残り、悪いものは消え、国全体の生産力も上がるという考え方、つまり人間の本性である競争力を使い、生産力を上げるという資本主義というやり方の方がよいという実践結果が、ほぼ20世紀のうちに証明された気がします。

 事業とか企業は、悪かったものは消え、良かったものだけが残るという競争原理によって、淘汰されるのは当然です。この考え方を徹底すれば、働かない人の生活費に税金を使うことは許されないという答えになります。そうしないと淘汰されないのです。


 〈働けるのに働かない人の生活費という問題〉

 資本主義経済体制は競争原理によって、淘汰されるという考え方に基づいていますが、この考え方を事業とか企業に止めないで、国民一人一人にそのまま適用することは、よく考えなければなりません。国民一人一人に、この考え方をそのまま適用したら、自分が生きていくだけの稼ぎがない人は、消えなくてはならないことになります。それも仕方がないということになれば、世の中は弱肉強食のジャングルとなってしまいます。弱い人間は、餓死することになります。

 これでは一人一人の命と幸福を究極の価値とする日本国憲法の理念に反する結果となってしまいます。そもそも経済は、経国済民であり、国を治め、国民を救済することが目的です。最終的には、国民の命を救うことが目的です。

 経済の仕組みや回し方も個人の尊厳、つまり一人一人の国民の生命と幸福を無視することはできないのです。どのような経済的体制を取ろうとも、個人の尊厳は、日本国憲法の究極の価値として尊重しなければならないのです。

 日本国憲法が、前述のように25条で「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と宣言したのは、資本主義経済体制の下において、事業や企業は競争原理によって、消えるものがあることは当然として、これを容認する一方で、国民一人一人の生命と基本的人権は、競争に負け、食べられない状況に陥っている人でも、国は国民に対し、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障することにしたのです。

 このように憲法を理解すると、答えは違ったものとなりそうです。正解は、働かない人の生活費に税金を使うことは許されるとなりそうです。

 働きたくても、身体的に障害があって働けない人や景気が悪くて働き場がない人に、国が生活資金を補助することは納得できます。憲法25条の規定があろうとなかろうと納得できます。ですが、働く体力もあり、働く場所も選り好みをしなければあるのに、働かないため、食えない人に税金からそういう人の生活費を出すべきかどうかとなると、憲法がどうであろうと簡単には納得できない気持ちになります。

 国から生活費の補助を受けながら、パチンコに明け暮れている人や、中には覚醒剤を使用している人もいるようですが、そのような人に対してまで、税金を使って、食べさせなければならないとすることには、大いなる疑問を感じます。一生懸命働いて、税金を納めている国民としては、納得しにくいところがあります。

 それは憲法や法律の解釈というより、人間の感情の問題です。ものごとに触れて起きる気持ちの揺れ動きです。心の働きです。この心が納得しないのです。

 「働けるのに働かない人の生活費に税金を使っていのか」という問いに対する答えは難しくなります。どう考えたらいいのでしょうか。もう少し詰めてみます。

 そういう親の子供たちであっても、その子供たちの生活費に税金を使うことはやむを得ないと納得できそうです。親がそうであっても、子供には責任がないということになりますから、そういう結論となりそうです。最も難しいのは、働けるのに働かない本人の生活費に税金を使うことの是非です。日本国憲法の究極の価値は一人一人の命と幸福にあるのですから、これを認めざるを得ないという答えになりそうです。

 理念、つまりどうあるべきかという、最も根本となる考え方としては、働けるのに働かないため食えない人に対しても、国は食べさせなければならないという結論になりますが、現実としては、憲法27条は「全ての国民は、勤労の義務を負う」と規定しているのですから、国民は働く義務が憲法上も明記されているのです。

 感情論だけではなく、法律論としても、その視点から、このような人の生活費に税金を使うことには、慎重でなければなりません。難しい問題です。少なくとも安易に、このような人の生活費に税金を使うことがあってはなりません。カネを出す窓口の行政には、慎重な対応が求められます。

 肉体的または精神的な欠陥があって働けない人と、働けるのに働く気がない人の区別は、現実の問題としては、困難なケースもありそうです。

 どちらにしても、国は、国民を餓死させることはできません。甘いと言われそうですが、「働かない人の生活費に税金を使っていいのでしょうか」という問いに対する答えは、苦渋の選択ですが、「やむを得ない」ということになりそうです。読者諸氏は、どう考えるでしょうか。

 (拙著「新・憲法の心 第28巻 国民の権利及び義務〈その3〉」から一部抜粋 )


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