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 〈自然法〉

 「自然法」という言葉は、憲法の基礎理論の中ではよく出てきます。広辞苑は、「自然界の一切の物事を支配するとみられる理法」とか、「人間の自然(本性)に基づく倫理的な原理。人為的・歴史的な実定法とは異なり、時と所を超越した普遍的な法と考えられる」と説明しています。

 人為的・歴史的な実定法というのは、法や憲法に明文として述べられている条項ということになりますが、これとは違う人間が法をつくる以前からあった、いつでもどこでも人間として従わなければならない倫理、即ち人として、こうでなければいけないと考えられる生き方の原則に基づく体系があるのです。これが自然法です。

 「この自然法の存在を認め、それを実定法の上位におく思想を自然法論」と、広辞苑は解説しています。このような考え方は、古くからあったようですが、私は、この考え方に賛同します。法律や憲法の条文に明記されていてもいなくとも、いつでもどこでも人間として従わなければならない倫理は、最大限尊重されなければなりません。憲法96条の改正手続という実定法に従えば、どのようにでも憲法を改正できるという考え方は、自然法論に反する考え方です。

 人間が法をつくる以前からあった、いつでもどこでも人間として従わなければならない倫理、即ち人としてこうしなければならないと考える生き方の原則とは何でしょうか。

 私は、個人の尊重、つまり一人一人の人間の生命、基本的人権の保障がなされなければならない、という考え方だと確信しています。日本国憲法も、それを究極の価値と考えていると確信します。人として、こうでなければいけないと考えられる生き方の原則に基づく体系は、憲法以前から存在しており、憲法は、それを確認しただけで、憲法が創ったものではないのです。

 ですから、憲法96条の憲法改正手続に従っても個人の尊重、つまり一人一人の人間の生命と基本的人権を侵害することになるような憲法改正はできないのです。そのような憲法改正は、憲法以前にある自然法に反するのであり、許されない。つまり憲法より以前に自然法があり、憲法改正には、自然法に反することはできないという限界があるのです。


 〈天賦人権論〉

 「天賦人権論」という言葉は、中学生から誰もが目にし、耳にします。いまさらの感がありますが、もう一度見てみます。角川必携国語辞典は、「すべての人間は平等であり、幸福を追求する権利をもつという思想」と述べたうえで、「18世紀にルソーらの自然権の主張にみられ、アメリカの独立宣言・フランスの人権宣言にまとめられた。日本では明治初期の自由民権論者らに受けつがれた」と続けています。このような理解は誰でもしており、この説明で、天賦人権論の輪郭は分かります。

 そもそも「天賦」という言葉は、「天から分け与えられたもの」という意味ですから、「天賦人権」とは、「天から分け与えられた人権」ということになります。その真意は、人権は王様や天皇や国や法律によって与えられたものではないという点に重点があります。ですから人権は、王様や天皇や国や法律でも奪うことができないものである、ということになります。

 この国や法律で奪うことができないという点に重点があるのであり、憲法でも奪うことができないという点に、憲法改正の限界を天賦人権論は画しているのです。憲法改正論が浮上している現在において、もう古くなってしまったとも思える天賦人権論は、もう一度見直す必要を痛感しています。

 国や法が与えたものではない、人間が生まれながらにして、天から分け与えられた基本的人権を憲法で奪うことができるなどという内容の憲法改正はできないのです。明治憲法にも、「臣民の権利」の規定はありましたが、それは天皇から恩恵として与えられたものであり、天賦人権論の真意に反するものでした。むしろ、天賦人権論に逆行する考え方です。

 明治憲法の天賦人権論を無視し、天皇が与えた人権という考え方が、日本を戦争に追いやった原因の一つであると、私は考えています。天皇は、明治憲法下において、「現人神」と呼ばれたとのことですが、天でも神でもないのです。このことは、現代では天皇自身か自認しています。天皇は、国家の機関の一つに過ぎないのです。

 私は、私の命も、幸福になりたいという権利も、天皇からもらったなどとは思いません。天皇も一人の人間として尊敬することはありますが、天とも、神とも思っていません。国民主権の現行憲法下においては、明治憲法下のように国民の基本的人権が天皇によって与えられたなどと考える人はいないと思います。

 その点は安心ですが、国民主権主義との関係で、最近懸念される部分が出てきます。それは、立憲主義国家であり、法治国家であり、民主主義国家だから、国民の多数決で決めれば、どのようにでも憲法を改正できるという誤解が生じる余地があるという点です。

 天賦人権論は、人命や基本的人権が、王様や天皇という独裁的権力者によって与えられたものではない、と言っているだけではありません。国や法律によって与えられたものではない、と言っているのです。ですから、国民の多数決で決めた法律でも憲法でも、基本的人権を奪うようなことはできないのです。国民主権にも、民主主義にも、このような限界があるのです。現在においては、その認識が大事となっているのです。

 前述しましたが、法の支配という言葉も、立憲主義という言葉も、法治国家という言葉も、使い方によっては悪用されかねない面があります。自然法理論と天賦人権論までさかのぼって、そのような悪用を許さないことが大事です。自然法理論や天賦人権論は、いまこそ思い出さなければならないのです。そして、政治の場で、カウンターデモクラシー(直接民主主義的国民運動)の場で活用されなければならないのです。

 何でもそうですが、使い方によっては薬も毒になるのです。多数決原理をとる民主主義の怖さは、数の横暴にあります。選挙で大勝した政権が、民主主義を盾に取って、数に頼って自分勝手に乱暴なことを押し通すということになりかねないのです。

 選挙で大勝した政権担当者は、そのようなことのないように、自戒しなければならないのは当然ですが、民主主義の主権者である国民が、政権担当者を選ぶ際に数の横暴に走るような人を選ばないことが大事です。

 もし、選んだ政権担当者が数の横暴に走るようなことがあったら、それを阻止するためデモをはじめとする、あらゆる直接民主主義的行動ともいうべきカウンターデモクラシーに訴えなければならないのです。民主主義は個人の尊重、基本的人権の保障のためにあるのであり、多数決が目的ではありません。生まれながらに持っている一人一人の命と幸福を守る方法に過ぎないのです。

 憲法改正問題については、国民は、選挙で、カウンターデモクラシーで、国民の考え方をはっきりと示していかなければなりませんが、もし国民投票となったら、生まれながら天から分け与えられた個人の尊重、基本的人権の保障が守られているかどうかという視点で、投票しなければならないのです。

 もし、選挙で間違った政権を生み出したら、カウンターデモクラシーで、これを倒さなければなりません。それには、理論武装が必要です。そのためには、普段からの勉強は不可欠だと確信します。いまさらという感もありますが、天賦人権論は、その強力な武器となるものと確信します。

 (拙著「新・憲法の心 第25巻 国民の権利及び義務〈その2〉」から一部抜粋)


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