〈欲で楽しみ、欲で苦しむ〉
前回書いた通り、「欲望」とは「不足を感じて、これを満足させようと望む心」と角川必携国語辞典は解説しています。同辞典は、「欲」とは「ほしがる、したがる」と書いています。「欲望」と「欲」は、ほぼ同じ意味だと思います。この欲望・欲は、生きている者ならば必ずあります。人間は、他の生き物以上に、多方面に、しかも簡単には満足しないで、どこまでも欲深く、不足を感じるようにつくられているようです。
欲望・欲は、犬や猫にもあります。犬だって猫だって、お腹が空けば不足を感じて、それを満足させようとします。腹が減れば、食べたがります。餌を求めて行動します。動物は、その時腹を満たせば満足します。人間のように、将来のために備蓄しようとまではしないように見えます。「金だ」「名誉だ」という欲はなく、人間ほど欲の種類は多くないようです。
欲の深さの程度、その種類や性質は異なっていますが、動物でも人間でも、「欲は行動の原動力」なのです。「欲は、生き物を活動させるもととなる力」です。生き物は、動物も人間もすべて、欲しがったり、したがったりするから行動するのです。
人間の欲は、多種多様で複雑怪奇ですから、そのための苦しみもまた、多種多様で複雑怪奇となります。反面、欲があるから楽しいこともあります。欲があるからこそ、生きていることは楽しいと思えることも少なくないのです。犬や猫と違って、人間が泣いたり笑ったりするのは、人間が他の動物より欲が多種多様で、かつ深いからかもしれません。
欲は、苦しみと楽しみの「諸刃の剣」となるのです。この欲にこだわりすぎると、満足ができなくなり、不足不満を感じ、人生は苦しいものとなります。ですから、仏教は「欲にこだわるな」と教えているそうです。
平成23(2011)年12月12日に、臨死体験をした気がします。あの世は、この世では経験したことのない穏やかな世界でした。「あの世に欲望はなかった」というのが、私の臨死体験の第一の印象です。欲がないから、欲しがることもしたがることもなく、穏やかそのものでした。欲望は、生きているからあるのだと確信しました。死によって、欲望は消えるのです。それまでは、つまり生きている間は、欲望はあるのです。
臨死体験を経て、生きている限り人間は「欲によって楽しみ、欲によって苦しむ」ようにできているという確信を得ました。欲がなくなれば、苦労はなくなります。仏教では「少欲知足」を説き、「欲を断って悟りを開く」と語っていますが、その意味を臨死体験で実感しました。ですが、それは死後のことです。生きている限り、欲望をすべて断つことはできないと思います。生きているということは、欲望があるということだと確信しました。
臨死体験をし、生きている間は欲によって楽しみ、欲によって苦しみ続けるようになっている、ということを知りました。だったらば、欲をコントロールし、苦しみの原因となる欲はできるだけ捨て、楽しみのもととなる欲はできるだけ増やしたいものです。欲と仲良くするというか、共存共栄、つまり互いに助け合って共に栄え、楽しみたいものです。それが「人生は楽しみ合うのみ」という「いなべんフィロソフィ」に適うものものだと確信します。
問題は、どうしたらそれができるかです。体験から生まれた知恵が役立つと確信します。哲学・宗教は、体験から身に付けた知恵学だと思うようになりました。その知恵学は、21世紀の現代に至っては、「戦争をしたい」という欲望だけは、「完全に放棄」しなければならないと教えているのです。人類は、その知恵学を学習しなければならないのです。その学習に少しでも役立つのではないかと思い、このような駄文を書いています。
〈理想追求を口実に欲望を満たすために行う戦争〉
戦争という、国と国とが武力で敵国民を殺し合うという行動も、欲が原因であることは間違いありません。
フロイトは、「過去の残酷な行為を見ると、理想を求めるという動機は、残虐な欲望を満たすための口実にすぎないのではないかという印象を拭い切れない」と述べています。どんな理屈を言おうと、戦争は欲望を満たそうとして引き起こされるものなのです。それも動物的欲望あるいはそれに近い欲望が主になっています。この欲望をコントロールしなければ、戦争防止はできません。
日本は、明治維新後「富国強兵」をスローガンに、日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)、日中戦争(1937-1945)、太平洋戦争(1941-1945)と、戦争に明け暮れてきました。いずれの戦争においても、国は、政府は、その動機を「理想を求めるものだ」と言い続けてきました。
ですが、「理想を求める」というのは口実で、「欲望、特に物欲・金銭欲を満たしたかった」というのが本音だったのではないかと思います。フロイトの指摘は、「戦争は理想を求めて行われるものではなく、欲望を満たすために行われるものである」ことを看破していたのです。
角川必携国語辞典は、日清戦争を「朝鮮の支配権をめぐる、日本と清との戦争」、日露戦争を「朝鮮半島、中国東北部の支配権をめぐる、日本とロシアとの戦争」と解説しています。広辞苑は、日中戦争について「日本の全面的な中国侵略戦争」、太平洋戦争を「日本の南方進出が連合国との摩擦を深め・・・」と 書いています。いずれの戦争も、欲望を満たすためだったことは明らかです。理想を求めたのではなく、欲によるものだったのです。他国の支配権を握ろうとする行為も、海外に進出しようとする行為も欲望、その欲望の中でも特に物欲・金銭欲を満たすためてあることは否定できません。
一部政治家や、それに組する曲学阿世の徒とも言うべき一部学者は、上手な口実を作り出し、「正義の戦争」だと言い張りますが、正義の戦争などないのです。戦争は、残虐な欲望を満たそうとするものなのです。このことは、明治維新後の日本の戦争を振り返ってみただけでも歴然としています。日本だけではありません。世界中の他の国の戦争も大同小異だったはずです。
戦争防止のためには、欲で楽しみ、欲で苦しむ人間の性、つまり生まれつきの性質を直視し、その欲を掘り下げ、欲をコントロールすることが絶対不可欠です。
21世紀という時代でも、欲を楽しみ、欲で苦しむという人間の生まれつきの性質を否定するものではありません。ですが、21世紀は、欲のうち「戦争をしたい」という欲は、完全に放棄しなればならない地球状況となっていることを認識し、「戦争放棄」をしなければならない時代となっているのです。そのような認識のもとに、日本国憲法9条は、「戦争放棄」を宣言したのです。
このような理解が、戦争を防止する2つの目の柱である「戦争を防止する心のあり方を整える」という問題を考えるうえで、絶対不可欠です。9条の戦争放棄は、「戦争を防止する外的な枠組を整える」という戦争を防止する1つ目の柱のためだけではなく、「戦争を防止する心」を憲法制定権者である日本国民が憲法上に謳ったものなのです。
憲法は、政権担当者が制定したものではありません。国民主権国家における主権者国民が創ったものであり、国民の心を示したものです。政権担当者が勝手な解釈をすることなど絶対に許すことはできません。
(拙著「新・憲法の心 第21巻 戦争の放棄〈その21〉」から一部抜粋 )
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