司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 安倍晋三前首相が5月3日のBSフジで放った東京五輪開催への前向きな発言に疑問の声が出された。彼はこう語っている。

 「菅義偉首相や東京都の小池百合子知事を含め、オールジャパンで対応すれば、何とか開催できると思う」

 ネットでは、このコロナ禍にあって、精神論、根性論で乗り越えられる状況ではない、という反応が示されている。条件を付けたうえに、「何とか」「思う」という表現自体は、前首相の個人的な感想として、強いものであるかはともかく、彼が発することの政治的な意味と、この問題に対する権力者たちの思考を読み取るには十分な材料を与えてくれている。

 国民がこの言葉に持つ疑問は、いうまでもない。コロナ禍が収まる気配がないまま、国民に多大な犠牲と我慢を強いながら、医療体制やリスク拡大への不安など、さらなる犠牲を承知で、延期・中止を求める多数の国民の意見を無視して、国家が突き進もうとしているなかで飛び出した前首相の後押し発言だからである。

 コロナ禍とオリンピック対策にみる日本の現状は、これまでも太平洋戦争に突き進んだ大日本帝国と軍部の姿に例えられてきたが、安倍前首相発言の「オールジャパン」にも、戦時下の「国家総動員体制」を連想した人がいたのも当然といえば、当然だ。日本は戦前とちっとも変っていない、と。

 感想めいた彼の文脈で、彼がこの「オールジャパン」という言葉に、どこまで具体的な意味を込めたのかは分からない。もっともそれを条件化するような言い方自体無責任ともいえるが、私たちこれに前記のような、暗い、ネカティブなイメージを描き、そうした過去に結び付けるのは、そこに「国家が一も二もなく国民に無理を強いる」動員の意味合いをそこに読みとるからにほかならない。

 いや、むしろこの言葉は、そういう局面に陥った国家が繰り出して来る、都合のいいマジックワードとして、まず、われわれは警戒すべきなのではないか。国家が引くという選択を嫌うあまり、国民を巻き込んで、その犠牲と危険のうえに「何とか」に賭けるように突き進む事態。国民の善意からの「協力」に頼り、その効果にこっそりと期待する発想は、コロナ禍での自粛「要請」で「強制」の効果を生ませる、あの侮りを思わせる。

 みんなが協力する姿勢に「ノー」と言えないだろう、という、彼らのなかの国民観が、「オールジャパン」という言葉には被る。つまり、これが活かされると国家がみた局面での、この言葉の出現は、そもそも民主国家にありながら、国民の意思の反映とは逆の、国家権力者側の意思の反映から逆算されたものといってもいいのである。国民の本当の意思を、この国の舵取りに反映させる努力も、あるいは説明責任を果たした説得や対話も、すべて度外視した、国民動員効果への期待が透けてみえている言葉と化している。

 1990年代末から2000年代初頭の、司法改革論議を知っている法曹関係者の中には、この「オールジャパン」という言葉にその強い印象を持っている人もいるはずだ。当初、法曹三者の強力な抵抗を予想した推進派官僚が、国家・官邸ぐるみの「改革」を目指して言い出したとされるが、その後、この言葉は、まさに国民を巻き込んでの、「改革」推進のキーワードとなった。

 しかし、当時、弁護士界内推進勢力のリーダーであった、故・中坊公平弁護士自身が認めているように、この「改革」は決して国民による、下からの声を反映して進められたものではなかった。あくまで上からの「改革」を国家ぐるみ、財界ぐるみに押し上げ、そのそれぞれの思惑と目的をはらみ、それらを達成するために、国民を動員しようとしたのが、彼らによって、ある意味、偽装された「オールジャパン」の司法改革だったのだ。

 その証拠に、裁判員制度にしても、法曹人口の増員政策にしても、「民主的」「国民・市民のため」を装い、喧伝しながらも、蓋を開ければ、国民が本当に求めたという声の反映でも、国民の本当の利益になるものでもない正体があらわになっている。

 その意味では、ネット上に広がった、前記発言への疑問には、コロナ対策とオリンピック開催への疑問が特に背景にあったとはいえ、健全な国民目線が見てとれるといえる。「国家」「国民」を冠して、権力側が繰り出す政策は、要注意といった人もいる。国家権力は抜け目なく、国民を利用し、大きな侮りのうえにそれを何度となく繰り出して来る。そして、その結果は、確実に主権者であるはずの国民を巻き込む。油断してはならないのである。



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