司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 広島高裁松江支部の差し戻し判決を受けて、傷害致死事件でのやり直しの裁判員裁判が松江地裁で始まっている。「過剰防衛」を認定したうえで、求刑懲役8年に対して同4年の判決を言い渡した2013年5月の一審・裁判員裁判について、高裁が同年11月に「審理不十分」としたものだ。高裁は「過剰防衛」の部分に、当時の状況から疑義を投げかけた形になっている。

 

 裁判員制度が導入されても、二審で職業裁判官が裁く制度にあって、「差し戻し」自体は当然あり得るし、市民が判断を下した結論に対して、もう一度市民が審理することも、すべてこの制度として、想定内こととして片付けられるかもしれない。

 

 ただ、よくみれば、今回の一件からも、この制度のいびつな現実が見えてくる。市民の常識や感覚が反映される、という触れ込みの制度にあって、あくまでこのケースで示されたのは、やはり職業裁判官の存在感といえる。しかし、ここで問題になっているのは、専門家が持ち合わせる法律知識に絡むことというよりも、あくまで「だれでもできる」とされた、そして、市民が担当することがふさわしいとされた事実のとらえ方に関する部分である。

 

 制度設計にあたって、二審で職業裁判官のみが判断するのならば何の意味があるか、という批判は出されたが、一審で、ある種の「是正」役として職業裁判官がともに裁くという設計をみても、「市民の判断尊重」という言葉のなかに、押し込めている、この制度の無理がここに象徴的に現れているという印象を持つ。

 

 そして、それを考えるうえで、気になるのが、「時間」の問題だ。報道によれば、前回の裁判員裁判では結審から判決まで中1日だったが、今回は1週間空けて、評議に時間をかけるもようという。「時間」さえあれば、あるいは、市民の判断が二審・職業裁判官の疑義にこたえるような、適切なものになっていたととらえているかのようにもみえてしまう。

 

 しかし、そもそも「時間」の短縮化は、裁判が目指す正義の実現とは無関係のものだ。裁判員の拘束期間や日当など、あくまで制度維持のための事情といっていい。裁判員制度維持が目的化することで、結果的に何が犠牲になるのかを、このことは示していないか。

 

 もっと嫌な見方もできる。この前回より多くとられた「時間」は、さらに市民の「感覚」に対し、説得・誘導しなければならなくなるためのものとして想定されている、というとらえ方だ。。争点の絞り込みや立証不足に対して、これも適切な職業裁判官の指導によって行われるための「時間」だから問題ない、とされそうだが、その一審もまた、職業裁判官とともに行われた結果である。その一審・職業裁判官も、その結論を「時間不足」のせいにするのだろうか。

 

 あくまで裁判員制度ありき、という立場で考えれば、市民の判断を市民の手で改め、二審・職業裁判官の「正当な」指摘が活かされる、というストーリーが、ある意味で、理想の結末かもしれない。もとより、「市民の判断」尊重の前に、差し戻されるべき案件が、差し戻されないなどということはあってはならない。

 

 しかし、こうした形で表面化しない裁判員裁判で、本当に裁判としてふさわしいことが行われているのか、そして、制度ありきで考えなければ、あたかも裁判の大変さについての、市民の学習機会のような、こうした制度の現実が、「司法への理解増進」の名のもとに、本当に許されるべきなのか、ということを思わずにはいられない。



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