司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「共謀罪」を成立させようとする側からすれば、本来は、世論形成のうえで大きく二つの乗り越えなければならない壁がある、とみることができる。一つは不要論。政府は国際組織犯罪防止条約批准には、この新設が不可能であるとか、国際的な批判を浴びるとしてきた。しかし、これに対し、日弁連などはあくまで各国の基本原則に基づく国内法化でよく、同罪の新設は必要なし、テロ対策とも無関係と指摘してきた。また、テロについても現行法で対応できるという主張もなされている。

 

 しかし、成立させようとする側にとって、世論形成という点では、それほど厄介な論点とみていない可能性はある。専門家のそうした見解はどれだけ伝わっているかということもさることながら、現実的には積極的な是非の判断材料にはなりにくいととるはずだからである。テロ、オリンピック開催への懸念を挙げれば、それこそ作ることにこしたことはない、という捉え方になるとの見通しも立てやすいかもしれない。

 

 むしろ彼らが、ずっと対抗世論として向き合わざるを得なくなってきた壁は、拡大適用論である。治安維持法の歴史的事実から繰り返しいわれてきた、制定時にいわれてきた立法趣旨とは違う形で、捜査機関が拡大解釈によって、市民や団体など権力にとって不都合な存在を弾圧するために使う。そうなる危険性あるいは意図をこの法律制定に読みとった側からの主張である。

 

 当然、制定を目指す側は、それを杞憂とする立場を維持しなければならなくなる格好だ。世論形成という意味では、「普通の人」「一般の人」は対象外という話が返ってくる。ただ、以前からこれは仮に権力が正しく行使されることを信じて疑わない人にとっても、疑問視されていいような言い方にみえていた。拡大解釈以前に、そこに区別がつくという前提のおかしさである。テロ対策であることを強調し、「テロ等準備罪」とするというならは、それはなおさら明確だ。

 

 そのおかしさをコラムニスト小田嶋隆氏が、ツイッタ―でこう分かりやすく述べた。

 

 「『一般人は対象外』という理屈の背後には、『共謀に与するような人間は一般人ではない』というトートロジーが隠れている。この言い方を応用すると、たとえば道路交通法も『一般人は対象外』として運用されているてな話になる。なぜなら『信号を無視するような市民は一般人ではない』わけだから」
 

 そもそも「一般人」が捜査の対象にならないわけではない。テロリストが「一般人」のなかにもぐりこんで目的を達成しようとすることは誰でも知っている。小田嶋氏も他のツイートでいっているが、そもそも「犯罪者」しか処罰されないのは当たり前のことなのだから、その意味では「一般人だから大丈夫」ということは、常識を言っているだけ。でも、制定を目指す側はそれ以上彼らにとって余計なことは決していわない。当然である。なぜならば、「自分は犯罪者でもテロリストでもないから、この共謀罪の対象とは関係ない」という世論の思考停止を期待しているからである。

 

 そして、肝心な「犯罪者」の対象を誰が決め、それにどういう人間が想定されてしまうのか、あるいはそれが可能になってしまうのかという点に、世論がこだわることなく、法律が制定されるというシナリオも崩れてしまうからである。

 

 別の言い方をすれば、推進する側の「一般人だから大丈夫」と聞える切り口には、同罪の拡大適用について、私たちを安心させる材料などどこにもないばかりか、ここにこそ彼らが明らかされたくない手の内があると考えるべきなのだ。

 

 三度廃案になりながら、「共謀罪」は構成要件を変えて、「テロ等準備罪」を新設する法案として、通常国会に提出されることが報じられている。テロ対策を言い、オリンピック開催を危ぶむ論調を被せてくるところに、「こんな危い法律をつくらなければ開催できないのならばオリンピックを中止すべき」とはならないだろうという、そこにも世論に対する、見え見えの侮りを感じる。

 

 テロ対策とオリンピック開催で、安倍政権は「共謀罪」に立ちはだかる二つの壁を乗り越えられるとみた。目論見通り同罪が成立し、将来、懸念通りの拡大適用がこの国に現出した時、そこにいる国民の眼には、世論への侮りのうえに成立を仕掛けた同政権と、まんまと侮られた過去のわれわれ国民の姿がどう映るのであろうか。



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