司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

〈NOの意思表示こそ国民主権の実質化〉

 

 裁判員に就任することは、国民の司法参加であって、主権者が司法権力の直接行使者となりその権力を行使し得る絶好のチャンスだ、それは参政権と同様の権利だから苦役ではない旨最高裁判所は言った。日弁連も国民主権の実質化だと言った。確かに裁判員になることは権力行使の蜜の味を味わう絶好のチャンスであり、現に裁判員になって良い経験をしたと言って喜んでいる人々が結構いるそうである。

 
 しかし、そのような人々は、憲法上本来してはいけないことをしている、やらされているという認識を持つことが民主国家の国民としての健全性の証であることを知るべきである。また、裁判員として候補者に選ばれ具体的事件で裁判員に選任されたとき、もし就任が嫌なら、「憲法上私は無理にこんな仕事をやらされるいわれはない。

 

 私たちはそのために裁判官を選んだ。裁判官はしっかりそのつとめを果たしなさい。」と言って断ることができる。仮に裁判員を担当してみたいと思う人がいたとしても、「この制度は憲法上許されないものだから、残念ながら私はなりません。」とソフトに辞退することが国民のつとめである。

 
 そのように国家権力に対し主権者として明確に批判、拒否の意思表示をすること、それこそが国民主権の実質化と言えるものである。素人が罰則の脅しで司法権力に加担させられることが、国民主権の実質化などといえるはずがない。日弁連は、国民主権と権力との関係を間違って捉えている。

 

 

 〈国民を裁判員に強制することの問題〉

 
 裁判員制度が制度として存在を許されない以上、国民に対し裁判員となることを義務化することの正当性の認められる余地は自ら消滅する。

 
 裁判員法に基づく国民参加型の裁判の違憲性は明らかであるとしても、裁判員制度とは別の形で、前述のように、一般国民が民主的正統性を得て下級審裁判担当者となることがあるとした場合(憲法80条の解釈として絶対に有り得ないことではない。例えば、任期10年の非常勤参審員で優れた人格と学識を兼ね備える一般市民を各地の裁判所に配置することなどは考えられないことではないであろう)、その者を強制してその地位に着かせることは可能か。

 
 その答えは子供でも簡単に出せるであろう。我が国の国民を義務的に公務、つまり全体への奉仕の職務に着かせることを容認する規定はどこにもないし、苦役云々を言う前に、個人の尊厳を最大の価値とする我が国の憲法がかかる強制を容認するものでないことは明らかである。

 
 万に一つでも裁判員制度の国民参加が合憲だと解されることがあったとしても、一般市民を罰則の脅しをかけて裁判員とすることを合憲と解する道は全くないと断言できよう。司法権力者が主体性を持たずやる気のない者で構成されることは想像の限りではない。

 
 最高裁大法廷が上告趣意を捏造してまで合憲と判断した裁判員制度について、裁判官が代替わりしたからといってそう簡単に違憲の判決を下すという、いわば鼎の軽重を問われるようなことをするはずはないから、今はそのようなことを期待する前に、国民が制度批判の行動を継続して行い、立法者を目覚めさせることが肝要だと考えている。



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