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 〈正当ではない個別的比較衡量論〉

 

 急に憲法の話になって恐縮だが、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」との憲法前文の表現は、その人間存在の絶対的価値の承認なしには理解し得ない言葉である。

 

 国民というのは、国という群れを構成する人間一人一人のことであり、福利は国民がこれを享受するというのは、群れから一人一人が大切にされなければならないということ、群れの利益のためと称してその一人の人間の存在価値を犠牲にしてはならないということである。

 

 憲法13条に定める「すべて国民は、個人として尊重される。」という表現は、その人としての存在そのものの価値を損なってはならないということである。そして、その個人の価値の限界的表現である公共の福祉という概念は、自分の価値を守るために他人の存在の価値を損ねてはならないということである。そこでは、群れのために各人が有する価値を犠牲とすること、価値を抹殺されたり損傷されたりすることはあってはならないという、群れと構成員との基本的在り方が宣明されているのである。

 

 日本国憲法を含む近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするものとして定められた(芦部信喜「憲法5訂版」13頁)。そこで述べられている個人の権利即ち基本的人権は、公共の福祉に反しない限り最大限に保護される。

 

 何が公共の福祉かについての判例の大勢は、個別的比較衡量論と言われる説を採用している。この比較衡量論という基準は、すべての人権について「それを制限することによってもたらされる利益とそれを制限しない場合に維持される利益とを比較して、前者の価値が高いと判断される場合には、それによって人権を制限することができる」というものである(前掲芦部101頁)。

 

 この比較衡量論については、「一般的に比較の準則が必ずしも明確ではなく、とくに国家権力と国民との利益の衡量が行われる憲法の分野においては、概して国家権力の利益が優先する可能性が強いという点に根本的な問題がある」と評されている(前掲芦部102頁)。その指摘は、要するに、その説によれば個人は公益に殉ずるという方向に流されがちであるということである。私は、個別的比較論はどうしても個人の尊厳を害し国家偏重になる説として正当ではないと考えている。

 

 前述の福島地裁の判決は、正にその国家偏重の流れを地で行っている。裁判員制度というものが国民の基本的人権を侵害するものか否かを問う裁判で、「憲法は一般的に国民の司法参加を許容しており、憲法の定める適正な刑事裁判を実現するための諸原則が確保されている限り、その内容は立法政策に委ねられている」と説く。そして、「そうであれば国民に一定の負担が課されることは憲法の予定するところである」と続く。



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