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 〈強烈な裁判員ファースト意識〉
 

 ところで、このマスメディアの検証記事とは別に、日弁連は機関誌「自由と正義」2019年5月号で「裁判員裁判施行10年を迎えて」との題で特集を組み、四ノ宮啓、高野隆、髙山巖3弁護士の論考を掲載している。

 四ノ宮弁護士は裁判員制度推進派の弁護士・学者としてつとに有名であるが、10年の裁判員制度の運用状況について、「国民の健全な常識を刑事裁判に反映させようとする」裁判員裁判の趣旨からすれば、裁判員の常識が尊重されなければならないのに、経験則という裁判官の約束ごとに戻りそれが規範化していないかと警鐘をならし、事実認定についても判断枠組みの専門性の過度の強調化を懸念している。
 
 しかし、同弁護士の論調は、「裁判員の主体性を確保するために裁判官には裁判員は統治主体としてまた健全な社会常識を代表して裁判に参加しているとの意識が必要であろう」という裁判員ファースト意識が強烈である。「司法までが民主化されないところに合理的な民主主義の運用がある」との兼子一教授の意見をどう捉えているのだろうかと首をかしげたくなる。

 高野弁護士は、「裁判員制度の効果」と題して、裁判員裁判は「裁判員制度の開始によって刑事裁判はあたらしい職権主義の時代を迎えたようである」と批判的に述べ、その訴訟手続への過剰な介入は「裁判員の負担の軽減」を口実に行われていることについて危険なことであると評する。

 同弁護士も四ノ宮弁護士同様、「裁判員はわれわれ国民の代表として刑事裁判に参加するのであって」「選挙で選ばれた国会議員に類比することができる」と断言する。裁判員はいつから国民の代表となったのだろうか。そのようなものが裁判をリードしたら、いわゆる人民裁判になってしまうのではないか。

 2011年11月16日最高裁大法廷判決の「司法権の行使に対する国民の参加という点では参政権と同様の権限を国民に付与するもの」との表現を何らの疑念を抱くことなく引用していることには、あまりの無批判さに恐ろしささえ感じる(前掲拙著p102参照)。


 〈「真に誇れる制度にする」〉

 髙山巖弁護士は、「被告人のための裁判員裁判が実現できているか」の論題で、従来の刑事裁判に変化があったかという視点を中心に論じている。直接主義、口頭主義が浸透してきたことについては前二者同様に評価しているけれども、高野弁護士も指摘するように、裁判所のやり方を全面に押し出しているとの印象を述べている。しかし、結論としては裁判員制度を真に誇れる制度にすることを提唱する。

 これら三者の論考に対しては詳細に反論したいところではあるが、それは後日の課題として、それに触れて思うことは、日弁連がこれまで一貫して裁判員制度推進の立場に立ち、事実上多くの国民から毛嫌いされている制度に今なお連綿とした態度をとり続け、裁判所同様その制度批判を受け入れようとしない方針が明確だということである。

 せめて「自由と正義」という公器を用いて制度施行10年の特集を組むというのであれば、広く会員や学者等から賛成・反対を問わず意見を募るなどの配慮があってしかるべきではなかったかと思った。



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