司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

〈司法の本質は一般市民の裁判への強制参加を要求するか〉

 
 最高裁判所が毎年行う裁判員制度についての市民の意識調査の項目に「刑事裁判や司法などに国民が自主的に関与すべきか」という項目がある。単なる「関与」ではなく「自主的」と態々断わっての質問になっている。

 

 現在の裁判員制度は、衆議院議員の選挙権を有する者から、くじで選ばれた者で一定の除外事由に該当しない者は全員裁判員になるべき義務があるもの、つまり強制である。「自主的」という言葉は前記の審議会意見書中の「裁判内容の決定に主体的、実質的に」という言葉と同じ内容のものとして用いているのであろうが、制度自体が強制関与、つまり動員であることは疑いのないことであるから、最高裁大法廷の判示する「裁判員の職務は参政権と同様の権限を国民に付与するもの」との見解は到底万人の容認し得ないものという以外にはない。

 

 そうであれば、最高裁の前記アンケートの「自主的に関与すべきか」という質問は、一般的に国民に対し、新たな立法政策の是非を問うことを目的とするものででもあればいざ知らず、現行の裁判員制度についての意識調査としては全く意味のない質問だということになろう。「刑事裁判に一般市民を罰則付きで強制的に関与させることをどう考えるか」と何故問わなかったのであろうか。

 
 司法という国家の権力部門の仕事は、係争の事実の認定とその認定した事実についての法律の適用である。それは、憲法に則り国家によって裁判を担当する者として選任された者によって行われる。裁判を担当する者の裁判に臨む際の理念は、憲法76条3項に定める「良心に従い独立して職権を行」うこと、「憲法及び法律にのみ拘束される」べきことである。憲法及び法律のみに拘束されるということは、適正、公平、基本的人権尊重の理念に支えられた的確な法の実現であり、「裁判については、他の国家機関によるコントロオルのみならず、国民による直接のコントロオルをも排除することが要請される。」(宮澤俊義「コンメンタール日本国憲法」p607)。

 
 その当然の帰結として、憲法が定める裁判担当者選任手続によらない、憲法及び法律を適正公平に適用することの能力を確保し得ない者は、最終の国家意思の決定に関与することは許されないということにならざるを得ない。まして、無作為にその裁判担当者を選んで強制的にその職務に当たらせるなどということは、近代司法制度の下では到底許されるべきではない。

 

 

 〈人としての裁判への関与〉

 
 以上は司法制度の面から一般市民の裁判関与について見て来た。一般市民が同じ市民を対象として、死刑を宣告し、自由を奪うなどの行為に加担することは人として道義的にいかに評価され得る行為であろうか。

 
 聖書の姦通の女のエピソードでは、石打ちの刑を説くファリサイ派らの主張に対し、イエス・キリストが「まず罪なき者石をもて打て」と話したことは有名なことである。また、死者の裁きをする閻魔大王は、裁きの前に煮えたぎる銅を飲んだと言われる(玄侑宗久「裁判員は日本人の美徳を壊す」文芸春秋2009・2月号)。いずれも宗教的立場からの、人が人を裁くことの戒め、厳しさを説く話である。

 
 国家の制度として法を実現する目的の司法において、法によらずに人が人を裁くこと、さらに裁判の本質にせまることの問題の提示である。

 
 仮に一般市民がかかる裁判への関与を望んだとしても本来人として許されないと考えられる性質の行為を国家の制度として容認することは極めて疑問のあることである。

 
 人が裁くのではない、事実を証拠に基づいて認定し、法律に従って刑罰を科すだけだから人倫に反することはないと反論する者がいるかもしれない。しかし、法を知らない者の裁きは自分の感覚、感情以外に裁く基準を持たない。正に人が人を裁くことになる。この点からしても一般市民の裁判関与は決して望ましいことではない。制度設計以前の問題である。



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