問題になっている取り調べ時の暴言などの検察官の不祥事が何に起因しているについて、元検察官の郷原信郎弁護士が新聞紙上で、個々人の問題というより、それは検察組織全体の病理としての「ゆがんだ全能感」であると喝破したことが、話題になっている(朝日新聞1月28日付朝刊オピニオン面「耕論」)。
起訴された事件の有罪率99%、犯罪率の低さや検挙率の高さ、治安の良さから来る国民の検察組織への信頼、造船疑獄での指揮権発動批判以降の「検察の正義」の神聖不可侵化や、ロッキード事件での「総理の犯罪」摘発で刻まれた巨悪対決の特捜の存在感といった歴史的な経緯――。
郷原弁護士が指摘するわが国検察を取り巻いてきた現実は、まさにその病理につながる事情として、極めて説得力のあるものにとれた。この事情のもとで、日本の検察は、「全能感」による誤った正義感を育んでしまったのか、と。
しかしながら、一旦目を離してみると、実は検察組織に限らず、今、日本で、いや世界といっていいかもしれない、現代人間社会で起きている、問題事象の多くが、人間の「全能感」に紐付けられるのではないか、ということに気付かされる。
日本にあっては、政権や政治家、官僚組織の腐敗、不祥事と隠ぺい体質、企業などをはじめあらゆる組織や業界で問題とされているパワハラやセクハラ。前記のような、育まれてきた経緯・事情は異なれど、すべてはそこにいる当事者たちの「全能感」に起因しているようにとれてしまう。そここそ、海を越えて見ても、他国への侵略を命じた、「皇帝」のごとき御仁や、就任早々「力による平和」を掲げ、前政権からの大転換を図る大統領令を連発している御仁にしても、まさにこの言葉の主と括れてしまいそうではないか。
言ってみれば、「全能感」とは、ある条件や地位を得た人間が陥る、自分は「許される」「許された」と思い込んでしまう、いわば大いなる勘違いである。その時、他者からは見えている不当性を、ご本人は見えていないという盲目性がこれを支えている。
ある地位にいる人間が犯す舌禍事件やパワハラにしても、仮に発覚し、社会の眼にさらされれば、どういうことになるか、経験豊富なはずの当事者が、信じられないほど想定できていなかったりする。明るみになった時のことを恐れて、手控える人間の資質は本物として評価できるか、という議論はあるにしても、地位によって盲目になる人間の資質はもっと問われていいように思う。
ただ、それは見方によっては、問題発覚後、訂正や謝罪会見をして、なんとか凌ごうとする、内心はレベルの「全能感」の主といえるのかもしれない。取り繕うともせず、すべて批判も跳ね返せる、あるいはもみ消せる立場にいる、という「全能感」の主もいるとお見受けする。重度といっていいかもしれない。
この言葉を考えるとき、成功体験ということもキーワードといえそうである。つまりは、その地位についてからの、もしくはそうした地位を獲得した過去の第三者の成功実績が、「全能感」を定着化させ、確信させる。現実的に社会が許容したか、され得るかを脇においた実績は、当事者にとっての「やり得」感、逆に言うとそれを行使しないことの損の感情を増大化させるのかもしれない。
話を検察の「全能感」に話を戻すと、記事のなかで、郷原弁護士は、検察が本来あるべき「正義」に立ち返るために必要なものとして、法相の指揮権に注目している。彼は、こう記事を結んでいる。
「議院内閣制の下、民主的正統性を持つ法相が検察の『全能感』にメスを入れ、説明責任を果たさせる。政治的動機の不当な指揮権行使は、諮問機関の設置などで防ぎ、最終的には主権者の国民が選挙を通じて審判を下す。それが民主国家のあり方ではないでしょうか」
法相の指揮権によって、「全能感」の上に乗っかった勘違いを目覚めさせる、あるいはそれが現実的に通用しない手段をとることへの提案だが、その法相がそれこそ「全能感」の主として指揮権を行使することへの歯止めも忘れていない。
だが、結局、ここで重要とされているものは、国民の眼と意識である。審判の現実的な脅威が、やはり「全能感」の主を目覚めさせる。これも、検察に限らず、実は前記この社会にはびこる「全能感」に当てはめられそうである。むしろ、「全能感」の成功体験を育ませてしまった責任は、私たちにあるという、私たちの自覚から始めるしか、もはやこの社会の宿痾と言っていいものに立ち向かうことはできないのである。