「日本人ファースト」という言葉が、参院選を前に一部政党の掲げていることとも絡んで、にわかに注目され、関心を高めている。そして、それは見方によっては、既に分断の様相を呈しているといえる。片や自国の国民の利益を当然に優先されるべき、という発想、片やこの言葉の先に予想される排外主義への危機感の隔絶である。
一見して、既にこの隔絶は埋め難いようにみえる。この言葉を掲げることを前者の立場の国民は、どの国にも見られる「健全な」ナショナリズムの範疇ととらえ、その立場に立たない、立てない日本の現実に強い不満を示す。それは、彼らからすれば当然に、これに「排外主義」を被せ、懸念する国民やメディアへの強い批判にもなる。
一方、後者の立場からは、自国民の利益を優先する、自国民中心のナショナリズムが、「排他的」に傾倒し、差別に至ることを、およそ歴史的教訓としてとらえる。その自国民の前記不満が大きければ大きいほど、それは歯止めが効かず、差別傾向は煽られる、とみている。
「日本社会に外国人、外国ルーツの人びとを敵視する排外主義が急速に拡大しています」として、この状況に強い危機感を露わにして、7月8日に発表された外国人支援団体など8団体が呼びかけた緊急共同声明では、「日本人ファースト」が既に「へイトスピーチ」として位置付けられている。
しかし、このことそのものが、まさにこの分断した両者の国民の距離感を象徴している。いわばこの国で生きる人間の「当然の」の主張を、「ヘイトスピーチ」と位置付けるような、彼らからみた「不当性」。「排外主義」を懸念する国民もメディアも、直ちにその「不当」な主張の側、もしくはその擁護者とされてしまうからである。
「日本人ファースト」の台頭をめぐり、ひとまず共通理解に立てるところから、アプローチする以外にない。まず、経済の停滞と社会に広がる将来への不安。物価高と賃金の伸び悩み、社会保障制度への懸念など経済的な閉塞感、その一方で労働力不足を背景にした日本政府の外国人受け入れの拡大とその体制の本質的な不備。「外国人優遇」をめぐり、認識も真っ二つに分かれるが、少なくともこれを単純に「フェイク」として片付け、一方を納得させることはできない、背景事情は存在し、また「排他」が、彼ら国民の多くが本来求めている(求めていた)ものでもないはず、ということにもなる。
もちろん「反グローバリズム」という背景も無視できない。国際社会の一員として自国利益の追求だけで繫栄も生存もできない、と一昔前まで多くの人が常識と思っていた価値観が、自国と自分を現実的に救ってくれないし、むしろ犠牲にしているという失望感は、その受け皿となるような政治的主張に当然の助けを求める。いまや世界的な傾向と言われる、その波も当然に共通認識の中に入ってくる。
「日本人ファースト」を支持する側は、それを掲げる勢力の真意とは別に、それを自国の文化や伝統を守ることと同じく、自国民として「当然の」幸福を追求するものであり、「健全なナショナリズム」の枠に収まる、自国民の「権利」と同義のものとして主張し続けるだろう。
一方、国民のそうした思いをよそに、それを掲げる勢力の意図(隠されたものを含み)によって、あるいはその多くの国民の意図と違う形で、結果的にこの国・国民が「排他的ナショナリズム」に傾く可能性は否定できず、その懸念は当然のものとしてあり続けるだろう。
そうなれば、この分断を乗り越える道は、ただ一つだけ。閉塞感を生み出し、国民がこの言葉に活路を見出さざるを得なくしている前提的な事情と、その解消を議論するしかない。今、なぜ「不当に」外国人が優遇されているように思えるのか、なぜ、もっと日本人を大事にしろ、という意識に多くの国民が目覚め出しているのか。
この言葉を「ヘイトスピーチ」として批判すること、あるいは「ヘイトスピーチ」に当たるのかどうかを議論することよりも、いかに迂遠のようにみえても、なぜ、この分断がこの国に生まれ、さらに拡大しようとしているのか、その背景にある、この国の失策を含めた原因を、まず議論すべきである。