いわゆる中傷工作問題に絡む高市首相の発言をめぐり、「嘘」という言葉が飛び交っている。中傷動画への関与の有無以前に、首相の「虚偽答弁」を問題視するものである。首相は6月10日、秘書と動画作成者とされる男性側が、オンライン会議を行っていたことを認めた。これまでの自身も秘書も、その男性と面識がないと繰り返してきた答弁を一部「訂正」し、事実と違う答弁となったことは、秘書の勘違いによると説明した。
この部分について、野党が問い続けているのは、高市首相の政治的・道義的責任としての国会における「虚偽答弁」ということになる。「訂正」という言葉で処理されるとなると、誤りと確信的な「嘘」の判定をどうするのかという問題となり、秘書の勘違いという言い分の評価にもなる。しかし、これまで断定的に関与を否定して、事実の確認についても後ろ向きととれる発言をしてきた首相の姿勢を重ね合わせれば、大方の国民の眼には、追い詰められての苦しい「訂正」と見えても仕方がないだろう。
しかし、ここであえて問いたいのは、国民の感受性の問題の方だ。今、国民は、政治家の「虚偽答弁」の問題性について、どのくらい深刻に受け止めているのだろうか。安倍政権での「記憶にない」「承知していない」という逃げの答弁を見てきた国民が、その点の感覚をどこまで麻痺させているのか。あたかも枝葉末節な問題のごとくとらえ、ありがちな「こんなことやっている場合か」ととらえてしまう可能性はないか。
だとすると何が起きるか。現実の答弁は、「訂正」として無毒化され、政治家はそれで逃げられると学習し、これを国民が許容し続けるという完全な共犯構造が出来上がるのだ。森友・加計・桜問題で、虚偽答弁を疑われながら、存続したかつての自民党政権。この経験から高市政権が学習し、成功体験のもとに、いまだに虚偽答弁として問題化されず、あるいは一部問題化されようとも、政権は持ちこたえられると踏んでいるとすれば、国民世論の反発をかなり低いハードルとして侮っている、確信的認識が、高市首相にはあるとみておかしくない。
今、冒頭のように、この問題で高市首相の対応について、言われている「嘘」という言葉と、同じくらい飛び交っている言葉は、国会会期を睨んだ「逃げ切り」である。しかし、既にこのこと自体の異常性に私たちは気付くべきだろう。つまり、本来、否定的文脈として使われるべきこの言葉が、あたかも一つの政治家の戦略として、当然に存在し得るものとして語られているような趣があるからだ。いうまでもないが、この言葉を通用させる政治家の前提は、真実を明らかにする必要はなく、国民は会期が終われば忘れ、もちろん説明責任もそこで問われない、というヨミにほかならない。もはや倒錯したこの国の政治文化と言うしかない。
高市首相の姿勢を見ても一目瞭然と言わなければならないが、ここ最近の閣僚にも、説明責任について、権力者が国民に対して負っている構造的義務であるという認識が決定的に欠落しているととれる。同首相の「訂正」も、形式的義務的に「説明した」という姿勢を見せながら、なぜ、虚偽を答弁したかの説明には向き合わない強い意思表示であり、それ以上の国民への説明責任の意識はない、と言っているに等しい。これもまた、説明責任が政治文化として根付いていない、この国の現実を象徴している。
これを政治家自身の矜持の喪失として捉えると、そこに政治改革の逆説がある、という見方もできる。1990年代細川政権以降の政治改革での小選挙区制導入で起きた党執行部への権力集中。中選挙区時代の自民党議員が、派閥の論理の中でも地元の直接的な関係や個人後援会という独自の政治基盤を生き残りの条件として、個人としての矜持が政治的に機能する余地があった。
ところが、小選挙区になると、公認権やカネを握る党執行部に権力が集中。逆らえば、即座に政治生命にかかわると考える議員にとって、個人的な誠実さや筋を通すことよりも、執行部への従属が生存条件として重んじられるようになった。前記矜持も、そのなかで消えたという見方になる。
また、かつての政治家の辞任には、「見苦しい真似はでせきない」といった、恥の文化を読み取ることもできた。それがSNSによる世論の断片化や共同体の解体など、世間一般が恥を感じる対象ではなく、政治家は支持者だけの「世間」に閉じこもる傾向になったという見方もできる。高市首相の強気の姿勢は、多分に自分の支持者しか視野に入っていない、ととることもできるのである。
しかし、やはり問題は前記した国民の共犯構造である。国民が許容した、という表現には、相当抵抗を感じる人がいるだろう。しかし、結果責任の話であり、おそらく正確には気付いてみれば、許容する構造に組み込まれていた、というべきかもしれない。有り体に言えば、政治改革を「良いこと」と思って支持し、小泉改革に熱狂し、SNSで怒りを表現することで、政治参加した気になり、その一つ一つの局面で、矜持を持つ政治家が生き残れない構造が結果的に選ばれてしまった、と。
まずは目の前の異常さを自覚するところから、われわれ国民の、選択による結果責任への自覚も求められているように思えてならない。