司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 

 岸田文雄首相が3月のウクライナ電撃訪問で、「必勝」と書かれた、しゃもし゛をプレゼントしたことを「不適切ではないか」として、国会で野党議員に追及された同首相は、以下のような趣旨の回答をしたという(広島ホームテレビ)。

 「ウクライナの方々は祖国や自由を守るために戦っておられる。こうした努力に対して、われわれは敬意を表したいと思うし、わが国としてウクライナ支援をしっかり行っていきたいと考えている」

 この発言には、今、日本政府がこの戦争について、基本的にどのような立場をとるつもりかが端的に表れていると同時に、日本国民に対しても、どういう立場であることを求めているが分かるものといえる。

 つまりは、「祖国」や「自由」を守る戦争に国民が駆り出されることも、あるいはそれによって犠牲になることも、「敬意」を表すべき対象であり、なのだと。さすがに首相も、「いや、それはウクライナ国民のこと。日本人が同じように日本国のために戦い、犠牲になることは話が別」とはおっしゃるまい。

 なぜ、今、ここにこだわるのかといえば、この首相発言に込められた「意図」こそ、今、問題となっている岸田軍拡路線と、まさに地続きのものにとれるからである。軍拡を支える「国を守る」という「正義」。それを支えるものは「敬意」に値する犠牲もいとわない国民の努力である、と。そういう意識をこの国の国民に醸成したい意向が、透けて見えないか。それはもちろん、侵攻されたウクライナを「明日は我が身」的な危機感につなげる、この国に広がる描き方とも被る。

 しかし、これは日本国憲法の立場、平和主義、民主主義、市民的自由という観点からかけ離れた、「防衛」を口実とした国民の強制動員の発想であり、それを国民にのませようとする発想といわなければならない。ウクライナを「明日は我が身」と被せるのであれば、領土のために、「徹底抗戦」を叫びながら、国民を戦争に強制動員し、その犠牲を正当化する日本の姿こそ、今、思い浮かべるきではなのか(「国民の強制動員からみるウクライナ戦争」)。

 「敵基地攻撃」を「国を守る」ために繰り出せば、相手のミサイル基地すべてを完全に沈黙させるのでない限り、当然に反撃は予想され、それ以上に、これは本格的な戦争への戦端を切るものになる危険性が考えられる。それには、、「国を守る」ための国民の犠牲、命をささげることになるのを当然とする、国民の意識が必要と考えるのもまた、当然ということになるのかもしれない。

 戦力を保持せず、こちらからの攻撃も侵略の意図もない、という姿勢を示し、それで構築される国際的信用によって、日本を攻める口実そのものを作らせない――。日本国憲法9条の発想に立った「国を守る」姿勢とは、もはやほど遠いところまで来てしまっている。むしろ、そちらに国民を向かせたくないのではないか。

 ウクライナ戦争についての「停戦」への立場も、どうであろうか。政府だけではなく、ウクライナ情勢を流すメディアも、最近もウクライナ側の「反転攻勢」にばかり注目し、登場するコメンテーターたちも「即時停戦」の必要性に関しては腰が引けている。領土完全奪還のゼレンスキー大統領の非現実性と、その間、国民の血が流れ続ける現実性を脇に置き、侵略を肯定できないとばかり、先の見えない侵略者完全屈服まで支援する側に与するのが、果たして「正義」といえるのか(「弁護士 猪野 亨のブログ」)。

 結局、そこを回避することで、国民に伝わるのは、首相が言うようなウクライナの「努力」への「敬意」であり、それを領土のために国民の犠牲をいとわない「あるべき国」、犠牲を当然に受け容れている「あるべき国民」のイメージではないか。メディアも前記意識醸成に一役買っている形となる。もちろん、「即時停戦」への本来果たしていいはずの役割の話も、この流れからは伝わらない(「戦争という手段が『常識化』した世界」)。

 「防衛」と軍拡の必要性を強調する側が持ち出す「明日は我が身」とは、違う意味で、自らこの国と国民を変えようとするそれが、既に始まっていることに私たちは今こそ、気付くべきときである。



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