司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「表現の自由」をめぐり、これほど物議を醸す首相も珍しい。昨年、例の「街の声」問題で、民放テレビ局の対応に目くじらを立て、党として街角インタビュー等での公正・中立な立場を要求する文書を在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに送り付けた(「安倍首相のなかの『軽視』と『怯え』」)かと思えば、今度は国会だ。社民党の福島瑞穂・参院議員による4月1日の参院予算委員会での安全保障関連法案に対する「戦争法案」発言をめぐる一件だ。

 

 自民側は、この発言の修正を求め、それを拒否する福島議員との間で対立したが、結果としては28日、岸宏一委員長(自民)判断でこの発言を修正せずに、議事録が公開されることになった。ただ、見過ごせないのは、やはりある意味、この間、一貫して示されている安倍晋三首相の、こうしたテーマに対する姿勢である。

 

 「レッテルを貼って、議論を矮小化していくことは断じて甘受できない」

 

 1日の発言後、安倍首相はこう語り、岸委員長も当初、「不適切な言辞があったように思われる」として、速記録調査と措置を行うという姿勢をとった。ただ、いうまでもなく、安倍首相の姿勢には、前記テレビでの発言問題での対応と同じく、政権にとって不都合な表現を、極力、排除しようとする姿勢とともに、「表現の自由」に対する根本的な無理解、あるいは誤解をさらけだしている。

 

 もとより安倍首相は、今回「レッテルを貼り」として批判するが、国民の代表として、正しい「レッテル貼り」ならば、してもらわなければならない。そして、それが正しいかどうか判断するのは、あくまで国民である。そして、その判断材料を提供し、議論の機会を保障するのが「表現の自由」の役割であり、その民主主義的な意義だ。

 

 まさに、そこのところを安倍首相は、理解しているのだろうか、と言いたくなる。表現が不適切だと考えるのならば、反論すればいい。ただ、それを修正を求めたり、ましてメディアに「圧力」ととられかねないことまですること自体が、「表現の自由」を理解した姿勢とは、とても見えない。「議論を矮小化」させる危険は、「表現の自由」を前提としない対応にこそあるといわなければならない。

 

 そもそも、このことを理解しているのであれば、むしろ「表現の自由」に対し、謙抑的な姿勢をとり、その一方で、自由な反対言論に対して受けて立って反論する姿勢の方が、「圧力」などという批判を受けないばかりか、どれほど政権のイメージにとってよいのかもまた、分かりそうなものである。

 

 しかし、「甘受できない」という安倍首相の認識は、そうではない。前記「街の声」発言での安倍首相の姿勢を取り上げた本欄の一文では、彼の対応からよみとれるものを「軽視」と「怯え」であると書いた。彼は自らへの「アンチ」を恐れるがゆえに、どんなに能弁に強気の姿勢を示しても、堂々と受けて立つという姿勢ではなく、「アンチ」に対する「アンチ」の賛同の力を借りて、マスコミを悪とすることに走ってしまう。「民意」を「軽視」しながら、一方で「怯え」ているのだ、と。

 

 今回も、全く同様のものが見てとれる。彼は、「戦争法案」という言葉が、どういう形で問題を核心を突いているのか(少なくとも、そう社会に理解されるのか)をよく理解している。「レッテル貼り」という言葉で、それに同意してくれる「アンチ」に対する「アンチ」の助けを借りようとし、福島議員を「悪」としようとした。「戦争法案」に同調する「民意」怯え、結果、その民意につながる、フェアな情報提供としての「表現の自由」を軽視する姿勢をさらしたのだ。

 

 「戦争法案」が「誤解」であり、間違った「レッテル貼り」であるというのならば、それをきちっと国民に理解できるように説明すればいい。しかし、これからの安全保障論議のなかでも、そうした自信や論戦を受けて立つ気概を、今の安倍首相と政権の姿勢からは感じない。あるのは高圧的な対応で押し通し、とにかく結果を出そうとする、そうとられても仕方がない姿勢である。

 

 それは、もはや彼とその政権の特徴というべきなのかもしれない。そのこと自体が、私たちに何をもたらしてしまうのか。私たちが、今、最も警戒すべきことはそこにある。

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