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 高市政権になって、政策や立法の優先順位のおかしさを指摘する声が絶えない。皇室典範改正や、いわゆる国旗損壊罪といった立法の場面でも、物価対策をはじめとする生活実感に直結する政策の場面でも、「なぜ、それが今なのか」という違和感が、あちこちから聞こえてくる。

 言うまでもないが、この優先順位への疑問は、本来であれば、民意離反を示す決定的な材料になるはずのものだ。国民が、今、求める政策が実現していない、という声は、政権と国民の間の乖離を可視化する、最も直接的で分かりやすい回路の一つであるはずだからである。

 ところが、現実はやや違うように見える。優先順位を問う声が広がっても、それがストレートには政権批判として結晶せず、また政権側もそうとらえないで済んでいる。そこから見て取れるのは、指摘しても応答されない、あるいは「何も変わらない」という経験の積み重ねの先の、政権と国民との間の関係性の変質である。

 これは、負の情報が積み上がっても、直ちに支持率に跳ね返るわけではない、という現実と根を同じくしている。政権は、優先順位を問う声そのものも、あるいは他の国民が指摘する負の情報の一つとして、もはや意に介する対象として扱わずに済んでいるということである。

 ここには徹底的には問わない国民、それを完全に見切っている政権の姿がはっきりと浮き上がる。応答しなくても、問いはいずれ収まる。もちろん、選挙までには忘れてくれる。だから、応答しないことは、彼らの合理的選択になり得る――。

 これはもはや対立でも無関心でもない。問わない側と問われない側が互いにその事実を前提に動き続け、あるいは国民は問うふりをし、政権は応答しないことで、一定の均衡が保たれてしまい、定着化する。これはもはや「悪しきもたれ合い」といっていいかもしれない。「もたれ合い」は、「なれ合い」の温かさとしてではなく、徹底しないことと応答しないことが、互いに支え合うような、冷たい均衡として現れる。

 今の国民の「徹底しなさ」は、応答されない現実とその先には何も生まれない、ということに刷り込まれた、ある種の「適応行動」といっていいのかもしれない。国民が正義感を失った、というよりも、応答しない、変わらないという政権の姿勢が、国民に「問うのは無駄」という学習を強いた結果として。政権が見切っているのは、まさにこの「適応行動」だ。

 しかし、いうまでもなく、私たち国民の側が手段失ったわけではない。緊張関係がなければ、選挙という選択を挟んで、それを創り、それを維持し、相手に応答を強いる。そうした力の行使の仕方をわれわれ国民はできるはずなのである。むしろ、深刻なのは、その緊張関係が応答を強いるという実感そのものが、既にこの国の国民の側から失われていることではないだろうか。

 なぜ、こういうことになってしまっているのか。それを考えると、「豊かさ」というキーワードに行き着くようにとれる。つまりは、国民は、「豊かさを求める者」として、飼いならされてきたのではないか。政治の多くに期待せず、ひたすら国民は生活の向上だけを求めればいい、と。そう振舞うことが妥当だという諦念が、いつのまにか適応行動の土台になっていないか。

 「失われた30年」という言葉が、これほど流通しても、多くの国民がその責任を問うモードになっていないことが、まさに前記現実と断絶した国民感情を表しているようにとれる。その言葉を知り、意味も理解しながら、自分自身のこの諦念と、政治に緊張関係を強いる力を放棄してきた、というまさに適応行動が、地続きのものとしては、見れない。受け止められない。それが国民の現実の姿ではないだろうか。

 つまりは、「失われた30年」は経済の話として消費されながら、自分たちがどう飼いならされ、どう緊張関係を手放してきたかという、自己診断の言葉としては、全く機能していないということなのである。

 優先順位が問われないというよりも、優先順位を問うことが力を伴う行為だということが、もはや豊かさへの馴致と引き換えに手放され、しかも、手放したことさえ、自分の物語として認識されないまま、ただの経済史のごとく素通りされていく。これこそが、今のこの国の宿痾というべきものかもしれない。



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