説明責任とは民主主義の基礎を支えるものと認識してきた。政府は、説明責任を果たすことによって、主権者である国民に対し、判断機会を与え、それによって国民の監視下に置かれることが、国民主権下での政府の正当な在り方であると。もちろん、これまでの政府も、その政策をめぐる説明のあり方や姿勢が問われ、しばしば説明責任が果たされていないことが、国民から批判の対象になってきた。
しかし、今、私たちが目の当たりにしている安倍政権の姿勢は、その点でこれまでとは異質であるといわなければならない。有り体にいえば、説明責任を果たす必要がない、という姿勢を堂々と示している。いうなれば、前記した国民主権国家における政府と国民との当然に守られるべき関係を、建て前どころか、平然と崩してきているようにみえるのだ。
森友問題も、加計問題も、そして共謀罪も、安倍政権の姿勢は、説明を尽くす必要がない、国民の疑念を払しょくする必要がない、という姿勢で、全く同じ方向を向いている。それが政府組織による不透明で公正さが疑われる「忖度」であったとしても、官僚事務方トップの証言であったとしても、徹底的に事実を究明する姿勢はなく、政府として答える必要もない、という言い切りによって、説明責任はない、といわんばかりである。
だが、ここで私たちが一番考えなければいけないのは、国民主権国家の政府と国民の当然の関係を、平然と踏みにじれる彼らの自信についてである。国民の高い支持率と、政権交代可能な政治勢力がないという環境。国民の失望を生んだ前政権の責任はあるが、安倍首相の自信は、「一強」といわれている、私たちが与えた状況から生まれたのである。「決められる政治」というメッセージの先に現れた、わが国の惨憺たる状況といわなければならない。
これは、本来は皮肉といっていいくらい、共謀罪が登場する社会の、まさに真の姿を私たちに教えている。権力が国民に対する説明抜きに必要、不必要をまさに彼らの都合で決められるやり方を、今、安倍政権が私たちの前で実践していないか。適用の判断が権力に委ねられてしまう罪が、今、どういう政権の下、作られようとしているのかを私たちは考える必要がある。
本当の意味で「国民の納得」など、とっくの昔に安倍首相の念頭にないようにみえる。あるのは、説明責任を果たさなくとも通用する立場に自分がいる、という、とんでもない誤解、あるいは錯覚なのではないだろうか。そして、与党政治家も官僚も、そしてマスコミの中までも、その誤解、錯覚する政治家の方を向き出している。それがまた、国民に対しても通用するという、彼の妄想を強固なものにさせているのかもしれない。
私たちが彼らに与え、そして私たちは彼らに侮られた。民主主義とはかくももろく、そして恐ろしく豹変するということを、肝に銘じるべきだ。いまならば、まだ、間に合う。