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 法科大学院制度がうまくいっていないことについて、大学院関係者や大マスコミを含めた制度擁護派の言い分には、常に責任転嫁のバイアスがかかっているようにとれる。司法試験合格率の低迷を問われれば、74校の想定外の乱立が掲げられ、今、志望者減少という事態には、予備試験の存在がやり玉に上げられる。当初の乱立も予備試験も、制度設計としては「改革」の問題ではあるが、本丸である制度そのものの責任ではない、といっているように聞こえる。

 つまり、根本的に制度の「価値」という点には触れないのである。いうまでもなく、制度の「価値」が問われれば、「改革」そのものの「価値」が問われることになり、根本的な失敗という評価につながるからだ。この本当の自省を伴わない、責任転嫁のバイアスを伴った分析は、今や「改革」をめぐる今後の状況についての悲観的な要素にしかとれない。

 あえていえば、この制度については、「うまくいっていないこと」が疑問なのではない。むしろ、「改革」は、このような制度が「なぜ、うまくいくと想定したのか」の方が疑問なのである。その最大の疑問は、対司法試験である。制度自体も、またそれを背負った大学も、なぜ、底上げ的に大量の人材を合格させられるという前提に立てたのであろうか――。

 法科大学院修了を司法試験の受験要件にし、法曹養成の中核と豪語しているプロセスである以上、制度にとっても志望者にとっても、当然、司法試験合格は至上命題である。しかし、そのプロセスの教育を強調する立場から、制度は、司法試験合格のための教育はしない、という深刻な矛盾を初めから抱えていた。

 資格取得が絶対的要件である職業を射程にしている、専門職大学院の立場としての無理だけでなく、法曹に必要な幅広い教育の必要性があるとしても、学生にとって身が入らないという現実的な問題が避けられない。新プロセスの教育の重要性が強調されるほどに、司法試験前のこの時期にそれが施されるという適切さも問われる。つまり、司法修習のように合格後に施される方が、より適切ではないのか、という疑問である。

 さらに、これは資格の選抜機能という、根本的な問題にもかかわってくる。法科大学院制度導入が具体化してきたとき、多くの推進派のなかにイメージとして存在していたのは、新プロセスを経れば、ほとんどの学生が司法試験にパスできる形であったようにとれた。しかし、そのことがこれまでの司法試験の選抜機能を維持し(あるいはそれに代わる機能をどこかで担う形で)、この制度が成立していくということを具体的にイメージできていた人が果たしてどれだけいたのだろうか、という疑問がある。

 本来は、法科大学院入学に、厳しい関門を設ければ、前記イメージに近い形での実現は見えてくるかもしれない。だが、そのためには司法試験の選抜機能の維持・代替を考えれば、司法試験合格者数から逆算した入学定員を厳格に定める必要がある。しかし、制度は初めからそれをやるつもりがない。いうまでもなく、それでは多くの学生を獲得したい大学にとって、この制度の経済的妙味が減退してしまうからだ。

 となれば、司法試験が厳格な関門として残ることを前提にしなければならない。結局、導入後、制度はこの点での、いわばどっちつかずの矛盾と無理を露呈させることになる。修了者の「7、8割合格」の表看板はすぐさま引っ込めることに。そして、合格率の低迷は続き、「行っても試験に受からない大学院」というレッテルも貼られ出す。

 司法試験に法科大学院教育の「効果測定」的役割を設けさせた辺りは、不安の裏返しのようにもとれるが、司法試験合格率の低迷が確実になると、「改革」の競争・淘汰論に乗っかって、質の保証は競争に任せよ、とにかく合格させよ、といった、対司法試験のあからさまな要求が、大学関係者から聞かれ始める。

 そして、志望者回復が課題となっている現在も、司法試験が法科大学院に合わせよ、という、それによる合格率上昇による状況打開に期待する声が出されている。

 そもそも制度的な意味でも、関係者の覚悟という意味でも、現在に至るので甘さがあることは否定し難いだろう。未修者を3年で司法試験合格レベルにするということを含めて、法曹養成の実績ゼロでありながら、どのような裏付けがあって設計されたのか分からないものもある。それもさることながら、今でも関係者が制度とイコールだとしている、修了の受験要件化にすがる発想には、取りもなおさず、こうした強制化の発想に立たなければ、制度が志望者に選択されないという、制度の自信のなさと、甘えが張り付いている。

 予備試験制限論も同様だが、本道への強制誘導は、そのまま新プロセスの「価値」で勝負し、選択される自信も、また、そのつもりもないことを示すものにほかならない。

 結局、志望者減という事態の前に、制度変更に迫られることになってもなお、制度を擁護する側は、自らが選択される側であることと、問題がその「価値」であることを自覚できないでいることは、そもそも制度と彼らがそういう発想のうえに、「改革」を進めたという現実につながっている。そして、そのことが直視されない以上、現実がさらに決定的な裁断を下すまで、法曹養成の混迷が続くことも覚悟しなければならないのである。



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