相次ぐ冤罪の発覚に、「この国は過ちに学べているか、防ぐ手立てはないのか」として識者の声を聞いた企画記事を朝日新聞が、11月16日付け朝刊オピニオン面で掲載した。登場しているのは、指宿信・成城大学法学部教授、木谷明・元裁判官、「名張毒ブドウ酒事件」と「袴田事件」を追ったドキュメンタリー映画の監督を務めた、東海テレビ記者の鎌田麗香氏。
三氏もちろん別々の視点で、このテーマにコメントをしているが、ひとつ気になったことがある。三氏とも、この問題を裁判員制度と絡めて締めくくっている点だ。もちろん、これは三氏の問題意識が偶然にそこにたどりついたということがないともいえないし、あらかじめ記者に言及することを依頼されていたり、あるいは編集上こうした形に作ったということなのかもしれない。
ご本人が話されたことが真実である以上、そのこと自体の善し悪しを問題するつもりはないが、危惧するのは、冒頭のテーマの括りの中でのこの扱いが、冤罪と裁判員制度の関係について、読者にどういう印象をあたえるのか、という点である。つまり、裁判員制度が冤罪防止に役立つというような、制度肯定論と結び付いた安易な期待感を増幅させないのか、ということだ。
三氏のうち、明確に冤罪防止をこの制度の効用と結び付ける期待感につなげたのは指宿教授である。陪審制をヒントとして、法律家の主張をもとにした市民判断の形が、「市民が誤れば自分たちの責任」という彼らの自覚のもとに、「間違いを犯さない仕組み作り」につながる、裁判員制度を導入したわが国にも可能性がある、としている。
ただ、可能性の話とはいえ、前提となっているのは、日本の法律家がこの制度によって、市民を「冤罪に加担させてしまってからでは遅い」という自覚を持つ、ということだ。市民の判断が誤判の抑制になるというのではなく、それ以前に、その法律家の意識が市民の誤判を生まない判断に導くといっているようにとれる。だが、この制度に、その目覚めるであろう法律家の責任を果たして読み込めるのだろうか。また、それを前提として、この制度に冤罪防止と結び付ける期待感を被せることになって大丈夫なのか、という気がしてくる。
鎌田氏は、再審の判断にこそ、裁判員制度のような市民の目線が必要という視点を提示する。再審に元被告人の人生を犠牲にしてしまう多くの時間が費やされてしまう現実を知る社会の側からは、しばしば「裁判員制度ならばこんなことになってなかったのではないか」という期待感が被せられやすいところである。しかし、あくまで裁判員制度はそれを前提としてない。市民参加の再審審査員制度を設けるという話ならば一応分かるし、鎌田氏の趣旨はそこだともとれるが、現行裁判員制度への期待感との線引きが読者に伝わるか。結局、そうした制度ができるかどうかも、機能するかどうかも、現状では司法側の自覚に期待しなければならない。
木谷・元裁判官だけが、期待感とは若干違う結び付け方をしている。市民参加がある以上、被告人の自白に引きずられたり、弱い状況証拠の重ねただけで誤判になったケースを裁判官だけでなく、国民全体で学ぶことの重要性を説いている。逆にいえば、そうでなければ、裁判員制度とて危いといっているようにとれる。自覚を促しているとみれば、指宿氏の主張と同じ方向だが、警告ととれる点が違う。
裁判員制度肯定論のなかでは、この制度が冤罪防止につながるという論調は、これまでも被せられてきた。しかし、あくまでこの制度は冤罪防止を目的として導入されたわけではない、という事実は、しっかりと確認しておかなければならない。そもそも司法が誤判を含めた司法判断への厳しい反省のうえに、市民参加を認めたわけではない。民主主義的意義とか、司法への市民理解という方向で作られたものなのだ。さらに現実は、むしろ、冤罪防止どころか、市民判断の行き過ぎを懸念する見方まで出ている。
安易な司法の自覚を前提に、この制度への期待感を高めるのは、無理があり、むしろ危いといわなければならない。まして、強制性を含めた裁判員制度が持つ問題性を糊塗して、制度を存続させる方向で、こうした現実的には見えて来ない期待感が利用されることがあってはならない。
「この国は過ちに学べているのか、防ぐ手立てはないのか」。この問いにまず私たちが自覚しなければいけないのは、決定的に不足しているのは不信感だと思う。捜査にも、司法判断にも、「犯人」と決めつけるマスコミ報道にも、そして裁判員制度にも。相手への期待感ではなく、その厳しい目線から生まれる緊張関係がなければならないはずである。裁判員制度がその緊張関係を生み出したととることもまた、制度と相手側にとって都合がいいものとなる、善意解釈といわなければならない。