2004年6月14日、刑事裁判として、この事件の判決が下された。懲役1年6か月 執行猶予3年。被害額15万円で出された判決だった。既に、地元新聞には、この事件が「15万円」の窃盗事件と小さく掲載されていた。
この報道と今回の判決によって、あることを私たちは恐れていた。それは、私たちが、被害の実態を語っても、事件の真相にまともに耳を貸す人たちが少なくなることだ。世間は新聞の情報を信用する。町社会福祉法人や加害者側にとっては、好都合の結果であろう。
窃盗が常習化していたことや、それに伴い被害額が累積したことが伝わらない。1千万円近い額の刑事事件と単発の15万円窃盗事件では、世間の関心は大きく異なる。町社会福祉協議会の不祥事が根底にある事件だという事実が忘れ去られる。「余罪」は、闇に葬られたのも同じ。虚しさを覚えた。
父は太平洋戦争も経験し、戦後、臨時教員から通信教育で大卒の資格と小学校教員の免職を取得し、必死に働き、私たち家族は、もとより地域社会の教育、特に美術教育の分野に貢献した。やっと緩やかな老後を過ごせるはずだった。父がコツコツ貯めた年金を、介護ヘルパー島原(仮名)が、湯水のごとくギャンブルに使い、テレクラ男に貢いだ事実に、悔しさが倍増したが、更に町社会福祉法人による事件の隠蔽工作にも腹が立った。
だが、私たちは落ち込んではいられない。裏で動いている連中の好き勝手にさせるわけにはいかない――。そんな思いが頭を巡る中、民事裁判に向けて自分に何ができるか、自問自答しながら本格的に動かなければならなかった。
私はまずは、刑事裁判の担当検事に電話をした。自分の中で消化できなかった刑事裁判での疑問を、率直に投げてみることから始めた。
「法廷で被告人は余罪を認めると、うなづいていたはずですが、なぜ立証できなかったのですか?」と聞くと、担当検事は言葉に詰まり、「これから先の余罪は、民事でやって下さい」と電話口の向こうでたどたどしく答えた。裁判所で、被告人の母親らと話し合いを持ち、余罪について触れたらば、彼らの態度が豹変したことを話すと、被害者の前で裁判直後にそんな態度とったことに驚いた様子だった。一瞬、声のトーンが落ち、刑事裁判で裁判官の前で振る舞った、被告人の家族の証言が嘘ではないかとの不信感を指摘すると、「あれは娘を庇う一心でね」と、検事は言葉少なに語るだけだった。
ただ、最後に「僕の知り合いの弁護士を紹介しますよ」という言葉が返ってきた。これが彼の精一杯だったのかもしれない。私は、「ありがとうございました」と言って電話を切った。「ぜひお願いします」とは言わなかった。実は、この時、民事裁判に向けて、兄が知り合いを通じて、行政に強い弁護士を探していたからだ。ニューヨークから一時帰国した兄は、地元で足を棒にし、事件の真相解明に動いていた。
私たちとしては、刑事裁判の場で、余罪を追及するものと思っていた。そのために県警は、窃盗現場を1度、ビデオに収録させ窃盗犯を確定した後、すぐに逮捕せず、敢えてもう一度、犯人を泳がせ連続的犯行の証拠を捉えようとした。15万円窃盗事件後、5万円窃盗した事件については、何も審理せず、平成16年2月14日の15万円窃盗だけを立件し、検察側は勝利した。これで彼らにとって終わった事件になる。残念なことだが、私たち被害者側からすれば、それは検察が事件の真相から背を向けたに等しい。
すぐに裁判所に刑事裁判記録の情報開示を求めたが、「それはできない。開示するのには、約1ヵ月かかる」と言われた。1ヵ月後では、兄がニューヨーク帰るタイムリミットギリギリだ。事件の真相解明に、刑事裁判記録は欠かせない。時間がない。何かいい方法はないか、知恵を振り絞り、それを入手する方法を兄と私は考えた。