低支持率にあえぎ続ける岸田政権であるが、党の首相は、いまだ再選の意欲を示しているということが、メディアによって伝えられている。会見で首相は、「道半ばの課題がある」などと語ったともいう。彼が今、本当は何を考えているのかは、もちろん彼にしか分からない。しかし、少なくとも、多くの国民には、彼の意欲の中身とは伝わっていないだろう。
とにかくなるべく長く首相の座にしがみつきたい、あるいはこの歴史的にも不評な首相のままで、去りたくない。せめて少しでも後年評価される形で語られる成果を残して去りたい――。彼が首相の座にしがみつく本音は、大方、そんな形で国民に伝わっているのではないだろうか。
選挙で国民から選ばれた国会議員は、いうまでもなく、国民に託されているという事実を、背負っている存在であり、そのことは最後まで重く受け止めなければならない。彼が、会見で語って「課題」への取り組みにしても、現実は、彼に在任、続投してもらって取り組んでもらいたい、という、国民の支持が意味を持っていることはいうまでもない。彼は、それでも託されているという意識を、本当はどのくらい持ち、感じているのだろうか。
「支持率に一喜一憂しない」。彼は、既に支持率下落傾向がはっきりしていた昨年10月に記者団に語っており、この時も「先送りできない課題」への取り組みという理由を付け加えている。支持率を無視して、居座り続けるに際して、彼にとって、これが座りのいい理由にとらえている観も否めない。
しかし、今月、首相側近の木原誠二・自民党幹事長代理は、出演したニュース番組で岸田政権の支持率低下に言及し、危機感を持って「一喜一憂すべき」と語っている。政権として、「一喜一憂しない」という姿勢が、国民にどう伝わるか、少なくとも「聞く力」を掲げた首相の姿勢として、まずいということだけは、この人物には分かっている、ということになる。
支持率に「一喜一憂しない」という言葉は、岸田政権が初めて言い出したことではない、と記憶する。気が付けば、いつの間にか、何やら国民に通用する論法のように言われ出しているが、一喜一憂して然るべき、ということは当然に言える話である。
だが、岸田政権の場合、さらに深刻な状況に突入しているのかもしれない。低すぎる支持率に慣れ、世論にさらに鈍感になる傾向が生まれる、という指摘である。
「通常、支持率が高ければ、政治的にリスクが高く、世論受けの悪い法案(たとえば、安倍政権における安保法案や消費税増税)を通す政治的なエネルギーがあるとされる。逆に、支持率が低いとポピュリズムと呼ばれるバラマキをしたり、とにかく世論受けを狙ったりするものだ」
「しかし、支持率が低すぎると、また違った雰囲気になるようだ。何をやったところで、世論調査はどうせ低いに決まっているのだから、世論受けなど狙わずに、謙虚に受け止める必要がある。一喜一憂して深刻に受け止めるべきというわけだ」(「小倉健一の最新ビジネストレンド」)
あえていうと、ここに提示されている支持率の先に現れるものは、いずれも健全ではない。選挙において、まるで全権を委任されているように、高い支持率の上に、ここぞとばかり、「世論受けの悪い法案」(どれもがまるで世論に反しても押し通すのが政治的に許される案件のごとく)を押し通すこと。支持率の低さに、人気取りの政策が「世論受け」のために繰り出され、それに本質論抜きに国民がまんまとのっかってしまうこと。そして、三番目の低支持率に開き直って、国民に「嫌われてもいいからやりたいこと」をやると、政権担当者が突き進むこと――。
こう指摘してされれば、私たちは、当然、岸田政権が、既に三番目の状況に突入していることを疑いたくなるだろう。しかし、この指摘をみると、やはり私たち国民にかなり責任がある、というか自覚が求められていることに気付かされる。高い支持率を与えて、その万能感を政治家に生み出させていることも、低い支持率でなめられたように、「世論受け」政策が打ち出されることを赦していることも、まして世論を無視した開き直りを許すことも。
すべては、選挙できっちり審判され、退場を余儀なくされるという緊張感を与えていない、あるいはそういう関係を作れていない国民側の責任でもある。そのことを岸田政権の現状を目の当たりにしている、今こそ、われわれがまず、それを強く自覚すべきなのである。