憲法改正が取り沙汰されるなかで、「新しい人権」という言葉が、また飛び交い始めている。「プライバシー権」や「環境権」など、憲法に個別に明示されていない権利保障の規定を憲法に新たに盛り込むべきという主張は、かねてから、現行憲法を時代に沿わせる、つまりは時代遅れという発想と、必要に合せて国民が「変えられない」ことのおかしさをいう見方によって、強調され、その点で国民の共感と支持を得ようとするものにとれる。
だが、むしろそこにこそ、「新しい人権」論の胡散臭さがあり、それが必ずしも十分に、あるいはフェアに国民に示されていないことに、その危険性があるように思えてならない。なぜならば、この手法が推進する側にとっての、不都合な事実を隠しているようにとれるからだ。
問題として指摘されてきた、一つは、いわゆる「突破口」論。改憲論者の本当の狙いは、9条改正にあり、いかにも国民の共感を得られそうな「新しい人権」をまず改憲の糸口にしようとする、という見方だ。もちろん、これに対しては、それを切り離したうえで、「新しい人権」そのものの意義が強調されることにはなるが、反対・慎重派は、それらは既存の法律や立法措置で対応できるという主張を対峙させる。逆に言えば、「既存の法律や立法で対応できる」にもかかわらず、どうしても改憲に結び付けようとするところにこそ、本当の狙いを隠す目的があることになる。
もちろん、これに対しては、今度は推進派からは憲法に規定されることの重みを他の立法措置と比較し、いわば憲法の意義を持ち上げる主張もなされる。その意味で、ここは本来、「新しい人権」が、ひとつひとつ法律で保障されるだけでは本当に足りないのかが議論されなければならないはずだ。問題は、それをきっちり行わず、前記したような発想で、飛び越えようとしているのではないか、という点にある。「突破口」論がいう、彼らの本当の目的をここに被せることは容易である。
ただ、この「新しい人権」論の胡散臭さには、もう一つの側面がある。つまり、この言葉を声高に言っている方々が、果たしてそれをいう適格性があるのか、有り体にいえば、信じられるのか、という点である。政府・政権与党は、国民の監視し、「プライバシー権」を侵害してこなかったのか、原発を推進してきた彼らは、「環境権」を主張できるような姿勢をこれまでとってきたのかどうか。過去の姿勢を見れば、なおさら隠された本来の目的を読みとるのは、むしろ国民としては自然なことに思える(弁護士 猪野亨のプログ「『新しい人権』の危うさ 人権を侵害してきたのは誰?」) 。
「新しい人権」が議論された6月12日の参院憲法調査会では、自民・公明両党が、「環境権」を憲法に明記する方向で一致、民主党が慎重論、共産・社民両党が反対論で、見解が割れていることが報じられている。ただ、この議論のなかでも、自民党は環境保全の責務を国に課すとしながらも、「個人が法律上の権利として主張するところまでは内容が熟していない」などと、クギを刺し、布石を打つ発言をしていることが伝えられている(朝日新聞6月13日付け朝刊)。
「新しい人権」論議の向こうに、本当に待っているものは何なのか。やはり、この胡散臭さこそ、今、国民に伝えられ、また国民が目を凝らすべきところである。