インターネットの普及とともに、この社会は、どんどん過剰反応に満たされてきている――。そんな風に思えてならない。自由に誰でも発信できる空間に当たり前にアクセスできるようになると、その住人たちは他人の言動に自由に干渉し、自分の考えをかざすようになった。
もちろん、誰もが委縮することなく、自分の意見を述べられること自体はメリットがある。ただ、それが常に攻撃性を持って、対象の存在を消し去ろうとする方向で発信されるとなると話は別になる。とりわけ、利害どころか自らに直接的に影響もない対象を、徹底的に排斥・中止に追い込もうとする粘着性には、時々疑問を通り越して、不気味な感じがしてしまう。
ネット上での「炎上」という言葉が一般化し、それを逆手にとって利につなげる「炎上商法」などというものまで存在するなかで、このヒステリックな反応が、どこか市民権をもってしまったような感じもある。私たちの社会の住人たちは、いつから自分と違う意見の人間を、自分に影響がない限り、放っておくということができなくなったのだろうか。
ネット社会の副作用ではないかと思える二つの点が気にかかる。一つは自己主張できることのはき違い。前記したようにネットという誰もが自由に発信できる機会を得たことにより、それが「共感」さえ得られれば、相手を社会的に追い詰め、それを変えられる、という思い込みが生まれたことである。
一昨年、弁護士界でも、朝鮮学校への補助金に対する批判的なブログの呼びかけに応じたネットユーザーたちによる、複数の弁護士に対する大量の懲戒請求が問題となった。批判されている問題に直接かかわりのない弁護士も含まれ、単にブログの呼びかけに煽られ、真実と思い込み、請求に及んだ人が多く含まれていた。
つまり、自らの信じる「正義」を訴えるハードルが下がり、根拠や裏付けを伴わない、もはや感覚での攻撃が許され、それが相手を押さえつけるまでまかり通ると考えてしまうという、いわば錯覚が生まれているようにとれる。
もう一つは、責任への麻痺。前記とも繋がるが、それがまかり通るという考えを支えるのが、自らがその発言の責任を問われることもある、発言する以上はそれを背負い続けるという意識の欠落である。前記大量懲戒請求の当事者も、この行為によって、弁護士側から、まさか損害賠償請求訴訟を提起されるとは思っていなかっただろう。
そもそもネット空間での匿名性が、無責任な言論を支えていることは、つとに言われて来た。匿名のシールドによって、発言の自由が逆に担保されているということが、「内部告発」保護のようにメリットとして強調される半面、発言の責任を背負い、反論・反証に対して、再反論・再反証を用意する、あるいは場合によってはきちっと謝罪するといった用意も覚悟もない現実。あたかもそういうことを気にせず、発言出来てしまうのが、この空間のメリットであるというような認識の方が広がってしまっているようにみえる。
抵抗感がないと言うこと自体が、錯覚の表れということもできる。「ネットで自分の意見を発信しているのは、渋谷の交差点で拡声器を持って話しているのと同じ」と言った人がいる。不特定多数に向かって発進されていること自体を忘れさせる作用がネット空間にはある。SNSを見ても、本来居酒屋でならば許される談義を、不特定多数の前でしていないか、と言いたくなる光景が、沢山ある。当たり前に無責任が許される空間であるかのように。
ネット上で進化した「口コミ」にしても、利用者に選択材料を与えるというメリットが支えている面は否定し難いが、一方で、あくまで主観的な意見であり、それを閲覧者が差し引いてとらえないと、知らないうちに不当なネガティブキャンペーンに乗っかっていることにもなる。
日本の顧客と店の関係では、店側が面倒なやりとりを極力避けたい意向から、不当な言いがかりのような顧客の主張でも、とりあえず謝罪して、反省の態度を示してしまうという傾向が指摘されている。しかし、残念ながら、この対応は一面、前記主観的であったり、また意図的に事実を歪めたり誇張して相手を攻撃する「口コミ」を当たり前に通用させる土壌を形成してしまう。
攻撃的な過剰反応は、それ自体、正当な意見の発露ですらなく、事実とは離れた、もしくはこじつけたうっぷん晴らし、八つ当たりである、という見方もある。そして、そのレベルでの共感がエスカレートすれば、いわゆる「炎上」といわれる場は、もはや他の利用者メリットからも外れた、集団リンチの場と化してしまう。
見たくない、利用したくない、聞きたくない、という、当事者の、あるいはその質の問題より、個人の印象や気分が反映した個人の意向を守るのに、多くの場合、前記してきたような過剰反応は必要ない。いうまでもなく、個人として見ない、利用しない、聞かない自由は、行使できるからである。
ネット空間でそれを訴え、結果的に同調者を募る行為には、意見表明の正当性やメリットから大きく逸脱した、リンチ願望ともとれるような、異常性をそこにみてしまう。私たちの社会が、いつのまにかそんな行為を見せつけられる空間に、どっぷりと支配されていることに、私たちはもっと危機感を持つべきであるように思えてならない。