司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>


 新型コロナウイルスに伴う、緊急事態宣言を受け、全国の裁判所で業務の縮小、期日の取り消しが一気に広がった事態は、この国の司法にとって、今回の状況がまさに経験していないものであったことを示すと同時、この宣言によって司法までもが例外なく「優先順位」を突き付けられる感染症禍の現実を明らかにするものとなった。

 もちろん、「命」という問題を突きつけられれば、もはや選択の余地はない、というかもしれない。感染症対策の選択の有無は、たとえ司法であっても、命がかかった結果責任を想定せざるを得ない。それは万人が同意する、共通の認識である、という人もいるかもしれない。

 だからこそ、この問題は難しい。それでも司法が完全に機能しないということ、それもまた命を含めた人権にかかわること。その価値をこの状況下で、どう社会に発信し、受け容れられるか。その課題を法曹は宿命的に背負っているからだ。

 「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止措置を講ずる必要性があることに異論はない。しかしながら、感染拡大防止の観点を重視するあまり、必要最小限度を超えた被告人の人権制約がなされてはならない」

 「身体拘束されている被告人にとっては、その長期化により被る不利益は甚大である。中でも、延期されていなければ、無罪、刑の全部の執行猶予や罰金の判決が宣告されていた場合は、公判期日の延期は不要かつ不当な身体拘束の長期化にほかならず、到底許されるものではない」

 4月に就任した荒中・日弁連会長は、同月15日に発表した「刑事裁判の期日延期等に関する会長声明」の中でこう述べた。「必要最小限度」というところには、さまざまな意見があり得るかもしれないが、この事態のなかで、人権制約の問題性について、一応日弁連として言うべきことを言っている。しかし、こうしたなかで被告人の人権が「優先順位」としてどういう扱いになるのか、むしろ社会がどういう目線を向けるのかは、少しも楽観できない。

 「医療崩壊」が危惧され、「命」の選択(既に医療は日常的に「命」を選択しているという見方もあるが)に迫られる危機が迫っているということが、この緊急事態下の日本で言われている。しかし、あえていえば、「司法崩壊」が危惧されたり、そこで司法においても「命」の選択が行われる危機が広く伝えられているわけではない。自らに降りかかるおそれがある感染症がもたらす危機にかかわるテーマと、あるいは一生かかわらなくて済む司法というテーマの違いとえばそれまでだが、国民に犠牲者が出ること、この国の法治国家の形にかかわる、重い「価値」がこちらにもある。

 フランスではこの緊急事態状況下でも、弁護士会が国にとって根本的に重要な公役務として司法を位置づけること、法治国家が蹂躙されることがないよう国に対し積極的に求めることを求めるとともに、それを支える弁護士を国が経済的にも守るよう堂々と主張していると伝えられる(「弁護士の経済的困窮を主張できる国とできない国」)。

 この「緊急事態」下の日本の状況を取り上げた、あるニュース番組のコメンテータ―たちが、戦後の日本が「人権」の価値を重視してきたあまり、国民に課される制約という問題が疎かにされてきた、という趣旨のことを述べていた。危機は、一面、政治的に権力者に利用される危険性を秘めている。前記コメンテーターたちのような発想が、早くもメディアを通して垂れ流されているのならばなおさらのこと、国民がものを言いにくい「優先順位」が迫られる時ほど、これまで築いてきた「価値」を権力者の都合よく破壊する企てを警戒しなければならないだろう。

 その意味で、こういうときに言うべきことを言う、あるいは言える弁護士・会という存在の「価値」もまた、私たちの社会は今、見直すべきではないだろうか。




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