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 裁判員裁判の長期化が目立っていると、8月21日付けの日本経済新聞夕刊が報じている。最高裁調べで、初公判から判決までの日数は、制度開始の2009年に平均3.7日だったのが、2018年には10.8日に延び、最長は同年の神戸地裁姫路支部で行われた殺人・逮捕監禁致死事件の公判での207日。被告人側が起訴内容を全面否認する事件で審理が長期化する傾向にある、ともしている。

 問題は、それをどうとらえるのかである。記事は、重大事件では審理短縮化に限界があるとして、対象事件見直しが必要との声がある、としている。登場する刑法学者には、「証拠の評価や責任能力の有無などが争われる複雑な事件」の長期化は不可避で、「審理が比較的簡単な軽微な事件」への審理限定などの必要性を語らせている。

 記事は裁判員裁判長期化の現実と、参加市民の負担軽減を念頭においた審理短縮の限界、そして対策としての事件限定などの方向を、さらっと書いている印象だ。しかし、それらはいうまでもなく、制度存続を前提とした捉え方である。実は、この記事が伝えている現実は、制度と裁判にかかわる、根本的な問題の再考を促しているようにとれる。

 一つは、裁判員制度がかかえた、裁判短縮化の発想である。この制度は既に導入前から、刑事裁判の長期化を問題視する見方とともに語られてきた。別の言い方をすれば、問題があるという前提で、短縮化の使命をあらかじめ想定して、それがまた、制度導入を正当化する根拠のように扱われた。しかし、あらかじめ短縮化を目的化する制度ということそのものが、刑事裁判のあり方として果たして適切なのか、という見方、懸念論がなかったわけではない。

 そして同時に、短縮化は裁判員制度の場合、当事者のためだけでなく、参加市民の負担軽減という目的が、これもまた前提的に張り付いている。しかも、それはただでも市民の経験傾向が導入時からはっきりしている制度にあって、参加市民確保という、ともすれば制度存続のための死活問題につながっている。この構図は、制度存続と市民参加の意義にこだわるほどに、短縮化を優先させるベクトルで制度が運用されてしまう危険をはらんでいるといえる。

 まさに、これこそが刑事裁判の主役を「裁かれる側」ではなく、「裁く側」として、お膳立てに腐心する、この制度の根本的な問題性につながる。審理短縮に限界が来た、というが、限界まで審理を簡素化し、期間を短縮しなければ続かない制度、そしてそれが限界になれば、対象事件まで変える、という異常な制度に、本当にそこまでする意義があるのかが、もう一度問われてもいいのではないか。

 そして、もう一つは、裁判員制度そのものの「価値」に既に矛盾がないか、という点である。前記審理短縮化の限界を踏まえた対策として、記事が示唆している方向は、長期化する裁判の除外。だが、それは即ち、全面否認事件や、記事中の論者が言うような証拠評価や責任能力の有無などが争われる複雑な事件。逆に言えば、被告人の権利がもっとも重大な局面にある案件に、あれほど制度がその意義でとして強調した、国民の良識は反映させず、争いがなく審理が簡単な事件にそれがよりそれを反映させる、という形になる。これでいい、という話だろうか。

 これは、そもそも被告人の人権にかかわる刑事裁判において、審理日数を含め、刑事手続きが優先されるべき、という前提を、制度があいまいにしているツケが回ってきているというべきである。案件によって、審理日数が要するものにも、当然に関係者はかかわらなくてはならないということ。「裁く側」の負担ということよりも、そもそも手続きに関与する以上、「裁く側」はその然るべき審理日数を、当然に回避すべきではないということである。

 つまりは、「裁く側」に立つ以上、それが市民であれ、その「覚悟」が必要であったのだ。国民の敬遠傾向がはっきりした制度にあって、制度はその厳しい「覚悟」を求めることをしなかったし、できなかった。しかし、それをしたならば、制度がもたないというのであれば、それ自体、この制度の無理の表れではないか。それを全く考慮も反省もせず、まるで当たり前のように、参加市民にそんな「覚悟」は求められないから、「市民参加の意義」の理念には完全に反するが、対象限定で制度を維持しよう、などという捉え方を認めてよいのだろうか。

 制度導入から10年を迎え、裁判員裁判の問題として浮き彫りになっているのは、「長期化」ではなく、刑事裁判にとっての、この制度の無理と矛盾であるというべきである。



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