司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「お金持ちしか法曹になれない」。給費制廃止問題をめぐり、弁護士会側から出された反対論調のなかの、この理由付けに対しては、今、戦術的に失敗だったという見方を会内でよく耳にする。その最もよく聞かれるのは、日弁連・弁護士会の法科大学院制度に対する姿勢との矛盾である。改めていうまでもないかもしれないが、つまりは、貸与制移行によって、「お金持ちしか」というのであるならば、それ以前に、より負担となる法科大学院というプロセスの強制化を問題にしてしかるべきであり、そこを問題にしないゆえに、説得力を欠いた、というものだ。

 

 逆に言えば、問題になるはずの修習生は、この制度上、法科大学院の負担を担うことができた、というとらえ方もでき、その後の修習1年間だけの負担増という形に問題が矮小化されたという見方もある。また、矮小化という意味では、そもそも貸与制での修習終了6年目から月数万円の返済の負担から、この道を断念するなどということはないのではないか、という見方が当初から会内にもあった。給費制反対への戦術以前に、この理由付けがイメージさせる深刻さに反した楽観論があったようにみえる。

 

 いまや法科大学院については、2014年度には志願者でピーク時の16%、入学者で半数以下という、はっきりとした敬遠傾向の結果が出ている。もちろん、法科大学院の経済的時間的負担と、低い司法試験合格率、さらにその後の弁護士の経済的状況をすべて見通した「価値」の選択によって、法曹界自体が志望されなくなっていることは明らかだ。

 

 しかし、最近、前記給費制廃止問題で出された「金持ちしか」という懸念論を裏付けるような、不気味なデータがネット上で示されている。司法制度や司法試験の問題を取り上げているブログ「一聴了解」が、最高裁への情報公開請求によって入手した次のような貸与申請者数と申請率(司法修習生採用者に占める貸与申請者の割合)の推移である。

 

 新65期(1742人、87.1%)
 66期(1654人、80.8%)
 67期(1449人、73.6%)
 68期(1181人、67.1%)

 

 申請者数、申請率とも年々下がり、既に7割を切っている、という結果だ。ブログ氏も指摘するが、貸与制利用者が経るということは、一見、より給費制不要論を裏付けるようにもとれる。しかし、この間の経済状況が特別好転し、それが貸与制不要につながっているということでもない限り、これはどう考えても、貸与を受けなくても困らない修習生が徐々にその数を増やしているととるのが、自然のようにみえる。

 

 そもそも「お金持ちしか」論が提起している問題は、二つの面から考える必要がある。一つは、いうまでもなく、志望者の機会保障。平等に誰でも受験できるという旧司法試験が掲げてきた制度の特質が失われるということだ。そして、もう一つは、その結果としての人材の多様性の阻害。要は経済力という要素で法曹の属性に偏りが生まれ、ひいてはそれが公平な司法の在り方を歪める恐れを生むということである。

 

 法曹三者のなかで、司法試験、法曹養成の公平性、平等性に一番こだわってきたのは、弁護士であるといっていい。統一修習といった三者間の平等の発想では、法曹一元の理念にもつながる在朝・在野法曹が同じ選抜過程と教育課程を経る意義が強調される。一方で、機会保障による多様性の確保は、より大衆に近い法曹の質、あるいは適格性にかかわってくる。

 

 ある意味、皮肉なことに、新法曹養成も多様性確保を掲げている。しかし、法科大学院修了の司法試験受験要件化というプロセス強制によって、明らかに旧司法試験より機会が制限されることが予定される制度にあっては、本来、そのマイナスを是正する相当なものが容易されなければならないはずだった。ただ、結局、ふたをあければ、法科大学院は経済的に余裕がない志望者にとっては、将来の返済不安とともに、選択しづらい。そして、その当然の結果として、司法修習に進めた人材も、偏り出しているということになる。これもまた、皮肉なことに、「お金持ちしか」論の矛盾でいわれた前記「できるはず」論の現実化である。

 

 そう考えると、「お金持ちしか」論を打ち消そうとする、「できるきず」論の立場、さらにいえばこの新法曹養成の形を維持しようとする「改革」の立場が、そもそも機会保障と前記多様性・法曹の属性の偏り是正というテーマに、どこまで現実的なプライオリティを置いていたのか、そのこと自体を疑いたくなってくるのである。



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