司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 いわゆる「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)への対策と併せて、自民党が国会周辺での大音量の街宣やデモへの規制を議論の対象にする方針を、8月27日のプロジェクトチーム初会合で固めたことが報じられている(産経msn8月28日)。「ヘイトスピーチ」への法規制を検討するという触れ込みのプロジェクトチームは、のっけからの便乗改悪方針を宣言した格好である。

 

 正直あきれながらも、案の定という感も持った。どうしてわが国では、ここまであからさまな「便乗」が、臆面もなく、登場するのだろうか。

 

 いうまでもないことだが、この二つは全く異質の問題である、というか異質の議論をむしろしなければいけない性質のものだ。片や「差別」の問題であり、片や「表現の自由」にかかわる問題だからである。「表現の自由」の権力による規制には、大衆は当然目を光らせなければならない。権力はともすれば、規制の方向で動きかねない。一方で、今、人間の尊厳を否定するような差別を放置させないという課題を権力側に突き付けている。

 

 便乗は、後者の要請にこたえながら、前者の権力の欲求をすべりこませるものにほかならない。「かこつけて」という表現がぴったりくる。そして、これには、さらにわれわれが注意しなければならない二つの事情を、押さえておく必要がある。

 

 一つは、「ヘイトスピーチ」をする側が、まさに「表現の自由」を掲げて、その行為を正当化しているということだ。逆に言えば、この境目をあいまいにしようとするのが、彼らの手というべきである。むしろ、彼らの手にのらず、この境目をはっきりさせるためには、両者が異質であることがしっかりと確認されなければならない。そのことに、自民党の検討は、まず、自覚的でなければならないはずである。

 

 そして、もう一つの事情は、安倍政権である。原発、憲法、戦争――。この政権ほど、民衆のなかにある政権批判の言論を封じこみたいという、前記規制の方向の欲求をはらんでいる危険がある、あるいはそうさせ得る世論状況を抱えている政権はないのではないか。ヘイトスピーチ対策をチャンスとみる危険性がある。

 

 国連人種差別撤廃委員会は8月29日、日本政府に対し、異なる人種や少数民族に対する差別をあおるヘイトスピーチを行った個人や団体を、捜査、起訴すべきとする勧告を行ったが、同委は見解なかで、ヘイトスピーチ対策を、その他の抗議活動などの「表現の自由」を規制する口実にすべきではないと、くぎを刺している、と報じられている(毎日新聞8月29日)。案の定の動きは、すべてお見通しというべきか。

 

 われわれは、なぜ、これほどの分かりやすい、あからさまなやり口を目にすることになっているのだろうか。法制審議会特別部会での取り調べ可視化を焦点にはじまったはずの議論で、「反省」に立つべき捜査側が、しっかりと真捜査手法の「武器」を手にして、「焼け太り」などという報道がなされたのを、われわれは目にし、権力側の油断ならない、したたかさを見せつけせれた。「ただでは起きぬ」は、政治家や官僚たちには、「お手柄」としてプラスの実績になる、という話も耳にする。

 

 しかし、彼らのあからさまなやり口は、いうまでもなく、それが通用するという自信を、彼らに与えてしまっている、いわば彼らに舐められている、われわれの問題と考える必要がある。案の定の感も、そんな彼らのやり口にならされている証ではなく、われわれ自身に、さらなる警戒を促しているものととらえなければならない。



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