安倍政権が支持される理由を、「他よりよさそう」というキーワードで、朝日新聞が論者に語らせている(8月24日づけ朝刊、「耕論」)。
「政権は、まともに議論するより、次の大きな議題を待ち、前の議題を忘却させる方が、成果を出したかのような印象を手っとり早く残せると踏んでいる」「有権者が、無難な方に身を置きたがっています。違和感を持っても、『ええ、そっちの事情もわかります』と受けとめた方が、コミュニケーション力があると評価される。怒りをぶつけると、除外される。だから、野党に対しても『批判ばかりでいいのか』となる。メディアも似ています。『野党も決め手を欠いた』と、両論併記で逃げる」(武田砂鉄氏、ライター)
「『他よりよさそう』という理由で支持する人たちの多くは、政策を評価しているわけでもなく、他の首相候補や野党と比較しているわけでもなく、現状がいいと思っている人たちなのではないか」(飯田健・同志社大学准教授)
「一つには、国民の間に『諦め』があるからだと思います。以前なら、国民を裏切るような『真実』が暴露されれば、首相が交代していましたが、今はそうならない。怒っても、戦っても、報われないなら、もう知りたくない。そういう諦め感が蔓延していると思います」「結局のところ、日本には意見が違う相手と知恵を出し合うという文化が根付いていない。本質的な議論を積み重ねる我慢強さに欠けているのではいてしょうか」(永井愛氏・劇作家)
いずれも現状を的確に表現していると思うが、これを読むと民主主義社会としては、改めて日本が相当重度な病に陥っていることに気付かされる。と同時に、ここには権力の作為的・意図的なものを感じる。つまり、病は自然に、あるいは政治状況のなりゆきで発生したのではなく、明らかに権力の都合で意図的に誘導された、国民の意識を読んでまんまと付け込まれた、というのが現実ではないか、と思えるのだ。
思えば、「他よりよさそう」という発想は、まさになりゆきで生まれたものではない。むしろ、このモアベターの発想こそ、政治であり、あたかも成熟した国民の選択の発想のように語られてこなかったか。選挙の投票に行かない、国民の無関心や諦めに対し、メディアも有識者も政治家も、選択肢の中から、「より良い」と感じるものを選択せよ、と言ってきた。それで良いのだと。選択肢がどれも問題であり、自分の考え方にしっくりこなくても、全拒否するのではなく、この中で一番良いもの、ましと思うものを選びなさい、そうでなければ前進しないのだから、と。
「提案型」という発想の推奨にも、実はこうした発想がつながっている。批判だけしていないで、提案することに価値がある。そうでなければ、前進しないのだと。提案できないものを、建設的でないとして議論から排除する考えやムードは、この30年くらいで日本社会にかなり浸透した。
もとより、この発想がすべて間違っている、とはいえない。ただ、前提的に語られるべきだった、重要な落とし穴がここにはあった。それは「妥協」の構造といえるものだ。このあたかも大人の対応のようにいわれた、「モアベター」も「提案型」も、そこで問われるべきだったもの、あるいは国民がこだわるべきだったのは常に「妥協」の評価のはずだった。有り体にいえば、ここで導かれる「妥協」が、前記発想のもとならば果たして許されることなのか、ということへのこだわりである。
それでも選択肢のどれもNO、代替案を提案ができなくても、この提案はNOということは、現実的には当然あり得るのだ。もし、ここに悪化ということが見えるのならば、もちろん現状をこれ以上悪化させないために、仮にモアベターを提案できなくても、徹底的に反対するということがなければならない。
もちろん、仕掛ける側は巧みである。時に「改革」という名のもとに、前進的印象を与える部分、つまり今よりよくなるということが、常に強調されて提案され、それと引き換えになる部分は、意図的に政策的に伏せるといったことが当然に行われる。つまり、国民が簡単に現在と、提示された未来を比較して「モアベター」の発想でNOを出させるようなまねはしないのである。国民は、ここを冷静に見抜かなければならない。
思えば、まさにここについて国民に冷静さを求め、むしろここで徹底抗戦することで悪化を防ぐことを訴えてきた専門家集団が、あたかも「提案型」というルールを無視した「抵抗勢力」であるとの烙印のもと、弱体化されてきた。労働組合も弁護士会もそうである。まさに、これも意図的といえるものだ。
「朝日」に登場する論者たちが指摘した、今の日本の姿は、こうした意図的なものの向こうに、その結果として現れた世界といっていい。違和感を打ち消し、コミュニケーション力の評価を求める傾向は、まさに「提案型」が定着した悪影響であり、比較することなき現状肯定は、有効な提案なき批判を封殺した結果として、現状肯定の多数派がいるのならば、違和感や異論に目をつぶっても付き合うのが得策という考え、さらにその現状を作った側の提案に期待しておくのが間違いないという意識といえる。そして、「諦め感の蔓延」も、「提案型」と「モアベター」に押し込められたことによる産物なのである。
思えば、司法改革とその失敗から学び取るべきものも、ここにある。「提案型」に巻き込まれた日弁連・弁護士会は、規制緩和型改革に「市民のための改革」を対峙させることで、結果として「オールジャパン」の旗振りに加担し、むしろ「抵抗勢力」として徹底的に反論・問題提起する道を選ばなかった。その結果、当然に裁判員制度や弁護士増員の、国民に跳ね返って来る本質的な問題に、国民は気付かされないまま、「改革」が進行してしまった。
それでも支持される安倍政権と、それでも支持する世論から、私たちは今こそ、気付き、学びとらなければならない。