司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「もし今、わが国の首相が彼でなかったならば」。こう仮定する意味を、歴史の「イフ」のように片付ける人もいると思うが、「安倍晋三」と現在の日本の状況をみると、この仮定には、私たちにとって、避けて通れない意味があるように思えてならない。それはもちろん、「安倍カラー」といわれる一連の彼の政治的スタンスが生み出す方向、とりわけ集団的自衛権の行使について、憲法解釈の変更容認を強行しようとするその姿から、「安倍晋三」でなければ、今、「ここまでやるか」という想像が、あまりに強くわれわれを支配してしまうからではある。

 

 だが、もう一つ肝心な意味は、冒頭のセリフを私たちが今の先にある、未来の日本において、語ることを想像できてしまうところにある。つまり、いうなればこれは、起きてしまった過去の仮定では収まらず、未来において取り返しのつかない過去を振り返る可能性の仮定ということになる。いうまでもなく、今ならば止められる、変えられる未来につながっている。

 

 近年の日本の首相で、「安倍晋三」ほど、その姿勢に「独裁」という言葉が被せられ、「独裁者」という言葉を多くの国民にイメージさせた人物はいないといっていい。もちろん、ここに「リーダーシップ」という言葉をぴったりとあてはめる人もいる。この二つの言葉は、その本来の意味の違いよりも、言う人の結果に対する評価から導き出されているという見方もされる。つまり、端的に言って、同一の対象行為を、支持しない人は「独裁」と否定的に言い、支持する人は「リーダーシップ」と肯定的に言っているだけ、という片付け方だ。

 

 だが、もちろん、そう片付けられるとも言い切れない。「リーダーシップ」は意見を汲み上げてまとめる力を内包し、「独裁」という言葉には、それがない、というとらえ方ができる。言葉だけとらえれば、「リーダーシップがある独裁者」や「リーダーシップがない独裁者」もいそうで、より前者が大衆とって害悪で、後者は「独裁者」としても結果的に破滅するようにもとれなくない。ただ、やはり、それが本当に意見の調整力を発揮してみせる「リーダーシップ」に値するものならば、そもそも「独裁」などというイメージがこれほど被せられることはないのではないだろうか。

 

 本当に必要ならば、閣議決定ではなく、憲法を改正すべきではないか、という慎重論は、要は憲法改正には国民の抵抗でたどりつけないことを承知で臨んでいる首相の姿勢を、ある意味、見抜いている。慎重姿勢の与党・公明党への説得は強調されても、主権者・国民への姿勢は、はじめから腰が引けている。新聞の投稿欄には、「国防の問題は、国民投票で決めるべき」という声も出ている。耳を貸し、汲み上げ、それで決めるというのではない、はじめに自分が決めた結論があるようにとれるところが、どうしても「リーダーシップ」ではなく、「独裁」のイメージになる。

 

 思想家の内田樹氏が、集団的自衛権問題をめぐる安倍首相と「独裁」について、書いている興味深い一文がある。

 

 「世界史を見ればわかるとおり、独裁というのは行政府が重要な政策を立法府の審議に委ねず、閣議決定だけで実行してしまう政体のことです。行政府への権力の過剰な集中のことを『独裁』と呼ぶのであれば、安倍政権はあきらかに独裁を志向していると言わざるを得ない」
「民主主義というのは意思決定に長い時間のかかる仕組みです。それが非効率だから権限をトップに委ねて『決められる政治』を実現しようと言う人々がいます。彼らは統治システムを株式会社のような組織に改組しようとしている。
しかし、民主制を株式会社のように制度改革することはできません。『文句があるなら次の選挙で落とせばいい』というのは企業経営者なら言えることですが国の統治者が口が裂けても言えないことのはずです」
「株式会社は有限責任ですからどれほど経営上の失策があっても、株主の出資額以上のものは失われない。でも、国家は無限責任ですから、失政によって私たちは国土も国富も生命までも損なうリスクがある。だからこそ時間をかけた議論と合意形成が必要なのです。安倍首相は政治とビジネスの違いが理解できていないようです」(「内田樹の研究室」)

 

 これを読む限り、「安倍晋三」という首相は、民主主義の意思決定の本質を理解した「リーダーシップ」を持たず、統治者としての自覚が疑われる存在であること、そして、その「独裁」のもとに、私たちはそれこそ取り返しがつかないようなリスクを負わされようとしているということになる。

 

 「なぜ、今、ここまでやるのか」という問いかけに、あるニュース番組の解説者は、集団的自衛権行使に踏み出すことで「歴史に名を残す」という気持ちが、安倍首相のなかにあるという、首相に近い人間の見方を紹介していた。もちろん、これが彼の本意かどうかは分からない。だが、少なくとも個人的な情熱ばかりが伝わり、社会の不安を汲み上げる「リーダーシップ」を感じることができない彼の姿には、「あの時、彼でなかったならば」と未来の国民に悔やまれる、「独裁者」として名を残す不安は全く感じられない。

 

 この国と憲法に、今、どういう既成事実と前例が、何によって作られようとしているのか。そのことを私たちは、未来のために問い続けなければならないはずである。

 



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