私たちは今、ベネズエラとイランに対して行われたトランプ大統領による明らかな国際法違反と、それを正面から批判できない日本の高市政権の現実を目の当たりにしている。そして、この国の多数派国民は、結果的にこの現実を静かに受け止めてしまっている感じがする。
欧米で「親トランプ」とされるイタリアのメローニ首相が、前記米国のイラン攻撃について、国際法違反として強く違反している。保守右派の姿勢、支持層で共通しているように見えるわが国の高市首相との比較において、この違いは際立っているようにもみえる。
もっともこの違いを含めて、高市政権の姿勢も現実も、その理由とするところは、分かりやすく羅列することができるのかもしれない。例えば、日米同盟という根本的な制約。つまりは同盟の根幹を揺るがすような発言ができない、戦後日本の構造的現実。中東産油国との関係もありながら、米国、中国との経済的相互依存、複合的に利害関係を考えた時の現実的配慮。
メローニ首相との対応の違いも、あまり説明を要しないという見方もできる。NATOとEUという枠組みに守られて、その中での存在感を示す外交を展開できるイタリアと、あくまで日米同盟の範囲内での振る舞いを最適解のようにしてきた戦後日本の違い。さらにロシア、中国、北朝鮮という核保有国に囲まれた日本の地政学的リスクの違いも指摘されそうだ。
高市擁護という目線で見る人がいれば、これは「言えない」のではなく、「言わない」のであり、国家利益や同盟関係優先の立場として正当であり、まして能力や適格性の問題とは直ちにはならないだろう。
しかし、問題はあくまで国際法違反という厳然たる事実であり、同法の価値への認識そのものである。いうまでもなく、外交上駆け引きの前に、国際法への向き合い方が形骸化していいわけはなく、「無理」という現実論の積み重ねは、結果として「強者の論理」の前に同法は常に無力とされてしまいかねないのである。
もはや引き合いに出すまでもないかもしれないが、日本政府は、ロシアによるウクライナ侵攻を国際法違反と非難しながら、「力による現状変更、主権侵害」という点で同質であるはずの、米国のベネズエラとイランへの対応には沈黙した。その明らかなご都合主義を、容認できるという、いわば国際法下の「前例」をさらっと作っている格好になる。もちろん、これがウクライナ侵攻中のロシアと、東・南シナ海で海洋進出を強める中国に、「無視できる国際法」というメッセージになる可能性は十分に考えられるだろう。
さらに、わが国として深刻な現実があるように思える。それは国民の受け止め方だ。端的に言って、国際法違反を非難しない高市首相の姿勢は、前記羅列される理由の現実論の前に、多数派国民は既に消化してしまっているのではないか、という懸念である。言い換えれば、既に国際法の価値も、その違反の問題性も、「現実論」の前には無視できるものとして、腹の奥底に落とし込まれているのではないか。
しかし、この現実の先に広がるものも、前記「現実論」の理由付け同様に容易に羅列できるのだ。いうまでもなく、「法の支配」を唱えながら、米国の国際法違反を批判できない日本は、今後、周辺国の行為に対して自国を守るために繰り出されるべき同法の論理的基盤を自ら崩していることなる。その一方で、これを現実論、「仕方のないこと」として許容した国民もまた、さらに今後も、わが国の国際法に基づかない姿勢を許さない基盤を失い、気が付けば「法の支配」より「力の支配」に従う国・国民へとなり、国際的にもそういう地位になっていくおそれもある。
どうにも動かし難い日米関係と、それを前提にその枠内でしか選択肢がないようにみえる日本の置かれた立場からすれば、「仕方がないこと」という「現実論」の先には何もない、という捉え方がまかり通るのかもしれない。だが、そこには憲法9条へのスタンスと同質のものを感じる。それは、われわれが、われわれの教訓から、どういう原理に価値を見出し、コストを払ってでもそれを守るのか、という、いわば、胆力に関わっているテーマにとれるからである。
「力の支配」を結果的に許すことになる「現実論」と、前記胆力をわれわれの中に大事に育むこと、そのどちらが真の平和につながるのか――。そのことを真剣に考えなければいけないところに、われわれは来ているように思えてならない。