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 現職首相の陣営が、総裁選・衆院選で対立候補や野党議員を標的にした中傷動画を匿名アカウントで大量に拡散していた、とされる週刊文春の報道の波紋が広がりつつある。高市首相は国会での追及に、秘書に聞いたとして、「秘書を信じる」として関与を否定する答弁をしたが、捏造とは言わず、法的手段をとることにも言及しなかった。しかし、それを狙いすましていたように、同誌は第二弾で、子どものインターネット戦略を担う現職大臣補佐官が、このSNS工作の責任者であることを明らかにし、より組織的関与をうかがわせる方向で、疑惑を強めることになっている。

 今後の続報も含め、事態はまさに現在進行形であり、今後の展開は予断を許さない。しかし、現時点で、少なくともこの現実は、二つの極めて深刻な問題を私たちに投げかけていることを確認すべきだ。一つは、いうまでもなく情報環境の操作が、投票の自律性、公正性を侵害するという意味で、民主主義の根幹への攻撃であること。そして、もう一つは、この深刻さに対して、被害者であるはずの国民が、そのことに十分自覚的ではない可能性があること、である。

 日本の民主主義教育は、選挙で投票することを権利の行使として教えるが、質の高い情報環境の中で判断すること。つまりは判断のためのフェアな環境の担保を含めて、選挙権を理解する概念が十分に定着していない。これは、大衆が形式的手続きの担保で、民主主義の機能が保たれているととらえてしまう危険性があることを意味する。

 一方、身体的暴力や財産被害と違い、情報操作によって投票行動に歪みが生じても、それは「騙された」という体験として認識されない。有権者は自らの判断が、外部から操作されたとは気付かず、自律的に判断したという、いわば主観的確信だけが残る。つまり、被害者意識が生まれない構造である。

 さらにいえば、この事実を国民が認識しても、その先に無関心と諦念のフィルターが機能する可能性もある。認識したとしても「どうせ変わらない」と感じることで、負荷が下がる。長年の政治不信の影響と括れる悪しき処理反応が、結果として社会的問題化へのモードを奪ってしまう。加害者側に極めて都合のいい状況を、被害者側のわれわれが作ってしまっていることになる。

 文春砲への反応をみても、世論の大半は、「高市陣営が本当にやったのか」という事実の問題に目を奪われ、消費してしまい、「民主主主義への攻撃」とするフレームで十分とらえきれない可能性もある。政治スキャンダルとしての、捉え方は、問題の本当の深刻度をストレートに大衆に覚知させるものにならない可能性がある。

 しかも、直接法律で規制されない、処罰されないとカテゴライズされた瞬間に、それは許容されても仕方ないものとして処理され、立法の欠陥という発想までにも至らないかもしれない。政治責任、道義的責任が問われていい場面であっても、社会全体で加害者を免責する方向に流れかねないのである。

 民主主義は、自分たちの社会を自分たちで統治することを前提としており、そうである以上、統治の質を維持する責任も分有していると考えざるを得ない。無頓着は、その責任の放棄であり、「知らなかった」と言ったとしても、「知ろうとしなかった責任」は、本来残るといわなければならない。

 無関心は前記したように、長年の政治不信の影響と括れる悪しき処理反応として、個人だけを責められない構造的問題をはらんでいる。じかし、無自覚はより深刻化もしれない。なぜならば、関心があるつもりでいながら、実は操作された文脈の中で判断している、ということだからである。中傷動画に引きずられた有権者は、自分が確信的に判断し、選択したものとして理解して気付かない。

 情報操作の事実に大衆がたどり着いたとしても、その怒りを政治家の品位や資質として消費するとき、多くの人は無意識に自分を被害者の外に置くかもしれない。本当の被害者は、まさに有権者自身であり、その被害が、自分の判断が「汚染された」という、取り返しのつかないものであるという深刻さには、たどり着かない可能性があるのだ。

 だとすれば、いま、その大衆に向って一番言わなければならないことは、われわれは既に被害を受けていること。その被害に気付かないことは、民主主義を静かに終わらせていくほど深刻である、ということであるように思えてならないのである。




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