司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

中央教育審議会は教員養成の在り方を見直し、大学の4年間に加え大学院での「修士課程」を履修させるよう、平野文部科学大臣に答申した。どういう「受け皿」が整備されるのかは、今後の検討にゆだねられているが、要するに大学院進学の義務化の方向である。

 これには、驚きあきれる弁護士の声が聞こえてくる。「教育現場も司法の二の舞になる」と。どう考えても、この方向は、法科大学院制度を想起させ、その意味では、その失敗を全く踏まえていないという話だからである。同じ専門職大学院である教職大学院の定員割れがいわれているなかで、これでいよいよ法曹志望離れ同様、教職志望離れがいよいよ深刻化し、教育現場が崩壊していく、と。

 この方向に舵を切る理由としては、「グローバル化や少子高齢化と社会が大きく変化し、いじめや不登校など生徒指導上の課題が複雑化するなかで、教員には高度な専門知識と実践的な指導力が求められる」からという大義名分が掲げられ、また大学院での専門教育で「即戦力につながる」といった期待感までいわれている。しかし、これがいかにもとってつけた名目であることは、多くの人の目には明らかであるはずだ。本当に、現場はこの強制で、即戦力が確保できると考えているのか、問い返したくなる。

 そうではないことの、底は見えてしまっているというべきである。つまり、これは言うでもなく、大学救済。利用されないのならば強制してしまえ、という発想で成り立たせる、彼らの利につながる話。ある弁護士は、「大学院資格ビジネス」と評したが、まさにそういうべき実態を持ったものにとれる。

 もっとも、こう言えば、何をいまさら、という人がいてもおかしくはない。そもそも少子高齢化が大学経営に及ぼす影響を見据えて、少人数からの学費徴収、補助金や教員の職場確保が、専門職大学院の真の狙いたという見方は、当初から存在してきたからである。

 こうした狙いが、実現しなければ、この制度を構想・推進した側にとっては、実は制度自体の意味がなくなる。本来は、前記掲げられているような「理念」をもって、本当に制度の意義があるというのならば、選択肢として堂々と、それを提供し、選択されない場合は、その内容の反省として受けとめればいい。それが、義務化に向かってしまうところが、まさにこの本音を露呈させてしまっている。それが、透けてみえたうえで、目にする前記「理念」には、やはり空々しさを持ってしまう。

 この底が透けて見える感じは、既に法曹界で法科大学院本道主義について言われていることである。この考え方を支えるものとして、ずっといわれ続けている「強制しなければ利用されない」という発想。この自信のなさそのものが、どんなに崇高で、理想的な「理念」を掲げようとも、実は目的が他にあることの証左になってしまっているおかしさである。文部省・大学関係者の意図するところだけでなく、これに加担しようとしている日弁連の関係者は、このことを分かってやっているか、それともこのことに利用されているととられても当然であることを、どこまで認識しているのだろうか。

 教職について、プロセス義務化の舵が切られようとしている今回の事態に、次は公務員か、ということまでささやかれている。また、教職についての今回の方向には、日の丸・君が代問題に絡んで、このプロセスが実は教職員の思想的な選別プロセスにするのが狙い、といった見方まである。

 いすれにしても、今回の事態から、この手法が表向きの「理念」とは別の目的のために繰り出されこと、そして、その別の目的達成に、法曹養成と法曹界の未来をゆだねていることの問題性を、法曹界の法科大学院本道主義者は、そろそろ認め、直視するべきである。



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