司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 

 〈「司法行政」事務と裁判事務の峻別の可否〉

 
 「司法行政事務と裁判事務は異なる。司法行政事務は、それを担当する立場にあるものはその個人の思想、信条、良心を超えて職務に忠実であらねばならない。しかし、裁判事務は、『その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される『(憲法76条3項)ことになるのであるから、同じ問題について正反対の対応をすることはあり得ることである。裁判官というものは、司法行政事務として裁判員制度の推進役を担ったとしても、その制度の違憲性の審査については全く白紙で判断に臨み得るのだから、司法行政事務としての言動は、具体的事件の判断について不公平な裁判をする虞があるとは言えない」。

 

 本件大法廷決定の立場は以上に述べたようなものであろう。裁判官というものは、公平性を保つうえで自己を律するに超人的パワーを発揮し得る存在であることを前提にしている。

 
 刑事訴訟法20条の除斥の規定の趣旨は何であるか。裁判官の当該事件との関連性、事件関係者との関係性によって職務の執行から当然に排除されるということである。しかし、裁判官という存在は、その公平性を保つことについては通常の人間にはなし得ない、スーパーパワー的自律力を有する、それが裁判官である、ということになると、除斥ということは、俗にいう「公平らしさ」の担保ということになる。

 
 裁判官はいかなる場合においても本来は公平に裁判をする力はあるけれども、世間一般の常識からすれば、前述の刑訴法20条の規定にある事件や事件関係人との関係にあるときには公平らしさが疑われるから、いわば李下に冠を正さずの立場から、その職務から離れた方が良いという判断に基づくものと解し得るであろう。

 

 
 〈宣伝広報活動と除斥忌避制度との関わり〉

 
 そうであれば、裁判員制度について宣伝広報活動をし、或いはその制度の存在意義を強調し、その制度の発展を肯定的に捉える発言をし続けた裁判官は、少なくともその制度と強固な結びつきがある、言い換えれば裁判員制度と直近の親族関係にあるようなものであり、違憲審査においては誰が考えても違憲判断をするなどということは信じられない、つまり明らかに公平らしさが疑われる状況であることからすれば、その全員が忌避の対象とされるべきは当然である。

 

 前記大法廷判決時点において、最高裁裁判官には違憲審査を公正になしえる資格のある裁判官は一人もいなかったのではないかとの疑いさえ持つ。



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