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 〈「勝った方が正義」という認識〉

 

 解釈改憲という言葉が目につくことが多くなった。それは、憲法改正の手続きを経ずに従来の憲法解釈を変更して、従来は違憲と解されていたものを合憲と解して、事態に対処することを指す。現安倍晋三内閣が、これまで歴代内閣のとってきた集団的自衛権(国連憲章第51条)の行使は憲法9条に違反するとの憲法解釈を変更し、それは憲法9条に違反しない旨閣議決定したことがその最たるものである。

 

 最高裁は2000年9月12日の司法制度改革審議会第30回会議において、資料として「国民の司法参加に関する裁判所の意見」と題する文書を配布した。この文書中の参審制に関する部分について、最高裁総務局中山隆夫総務局長(当時)は「例えばドイツのように裁判官3名に対し参審員2名の裁判体とし、対象事件は基本的に国民の関心が高く、社会的にも影響の大きい重大事件とし、参審員には一定の任期を設けるといった制度が考えられます。ただ、憲法上の問題を考慮すると、参審員は意見表明はできるけれども、評決権を持たないものとするのが無難ではないかと思われます。もとより陪審制と同様の検討課題もあり、参審員となる者の拘束期間や、参審員の選定方法、任期などについても幅広く検討する必要があります」と説明している。

 
 さらに、同局長は、その陪審制と同様の検討課題として、世界の刑事陪審事件の約8割が行われていると言われるアメリカを例にあげ大要つぎのように述べている。

 

 「同じ国民の中から自分が裁く者を選んだ以上は、そこで出された結論は受け入れるという手続的自己責任の原理、あるいは手続に絶対的な価値を置く原理の下で成り立っている」「陪審制は各国の歴史に根差した制度であり、多くの社会的条件によって支えられている。第一は国民の負担、陪審員となる国民の理解と協力が得られなければこの制度は成り立たない」「集中審理を実現する弁護態勢の整備」「犯罪報道についての実効性のある規制の必要」ということである。

 

 なお、西野喜一新潟大学大学院教授(現同大学名誉教授)は、つとに陪審制の前提として「『正義が勝つのではなく勝った方が正義である』という認識ないし開き直りが必要となる」と指摘している(「司法過程と裁判批判論」p167)。前記の中山説明は、その西野教授の説明をやや難解な用語を用いて説明しているものである。

 

 

 〈「評決権」付与で示された疑義の憲法解釈〉

 
 その後の質疑応答において、のちに最高裁裁判官に就任し、いわゆる「ピース缶事件」、「求刑1・5倍事件」の判決に関与した最高裁白木勇刑事局長(当時)は、前記西野教授の論文等を引用し、陪審による冤罪、誤判率が高いことを述べ、また中山総務局長は、中坊公平委員の「今回、最高裁側は、つい数日前の新聞、9月10日付の朝日新聞を見ますと、参審制、しかも評決権を持たない参審制というものを最高裁の裁判官会議で決めたというふうなことが、なぜか一部の新聞の一面トップに取り上げられております。そこでお尋ねするんですが、まず、いつの最高裁の裁判官会議で、そして全員一致でお決めになったのかどうかそれをお答えいただきたいと思います」との質問に対し、「まず、裁判官会議の関係でございますが……本日お配りしたようなペーパーを配り、本日述べたような内容について最高裁として意見を申し上げるということにつきましては、裁判官会議で了承を得ております。……具体的な事件が係属していない段階で先取した形で合憲か違憲かといったようなことを論じること自体に問題があるのではないかという御意見も含め、積極、消極いろんな御意見がございました。しかしながら、憲法上、そういった疑義がある、それがまた、学説でもかなり有力であることを踏まえ、最高裁判所として提案するものとしては、評決権がないものにしたらどうかというところでは、大方の裁判官の一致を見たところでございます。」と回答している。

 

 ここでは国民参加型の裁判において参加した国民に評決権を与えることは違憲だと断じているわけではない。しかし、評決権を与えることは憲法上疑義があるという、憲法解釈を裁判体としてではないとは言え国家権力の一翼を担う機関が公に示したものであることは否定し得ない。



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