〈「実質的には強制はない」という考え方〉
先にも触れたが、裁判員として職務に従事することが憲法18条の苦役に当たるか否かについての、前述の、到底承服できない「参政権同様の権限論」以外の苦役に当たらないとする判決の理由付けは、要するに辞退に関し柔軟な制度を設け、その職務に関し負担軽減のための経済的措置が講じられているからという。要するに、制裁の規定はあっても実質的には強制はされていないし、それなりの利益も与えられているではないかということである。
私は、この点の判示に、最高裁の国家観、国民の基本的人権についての価値観が如実に示されていると考える。
国民が裁判の場において裁く立場に立たされた国民の心情を最高裁判所の裁判官はどのように捉えているのであろうか。一定の条件に該当する者は辞退出来、或いは排除される。中には人生一度きりの貴重な体験だと喜び勇んで参加しようとする人もいるであろう。たまたま失職している、良いアルバイトになるといって参加する者もいるであろう。
しかし、以前に最高裁が行った意識調査の結果も示しているように、多くの人は裁判員制度について拒否的意向を示しており、現に調査票が送られたこと自体に脅え、呼出状におろおろし、何を言い、何を書けばそのような仕事から逃げられるかと真剣に思い悩んでいる。
私も何度かそのような人々からの相談を受け、話を聞いた。裁判員経験者の中にも、もうこりごりだ、二度としたくないと明言している人もいる。人が人を裁く場に立つことと参政権の行使とをごっちゃにしてしまう裁判官の感覚では到底理解できないことであろう。
それでも国家は国民を何故に国家の行為である裁判に駆り出さなければならないのか。
〈裁判員に不参加でも公共の福祉には反しない〉
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と憲法13条は規定する。これは国家と国民との関係を示す憲法の最重要規定であり、全ての国策はこの規定を常に念頭に置いて定められなければならない。
国民が裁判に参加しなければ公共の福祉は害されるか。これまでの裁判は国民が参加しないで運営されて来たし、現に99%余の司法判断は国民の参加なしになされている。国民が裁判員とならなければ公共の福祉に反するとか、他に迷惑をかける事態になるなどということはあり得ない。
それ故裁判員となることを強制することは憲法13条に明らかに違反する。判決はそのことに全く思いを致していない。そこに最高裁の、国民の権利よりは国策尊重つまり国家主義的国家観と人権感覚が示されている。