司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「森友学園」問題をめぐり、連日の報道で飛び交うことになった「忖度」という言葉について、渦中の松井一郎・大阪府知事がこう語ったと報じられている。

 

 「忖度には、悪い忖度と良い忖度がある」

 

 松井知事は「政治家は国民の思いを忖度して政治を進めていくもの」としている。要は権力者が、国民の意思を慮る方向のものは良いといっていることになる。この問題での使いどころとして、適切かどうかはともかく、そもそも「忖度」という言葉か善悪の色がついていないものということと合せて、彼が何を言いたいのかは、一応理解できる。

 

 しかし、この問題から離れて、この言葉が登場する場面を思い返してみると、そう簡単に割り切れない、という気持ちになる。なぜなら、現実は国民にとって取り返しがつかない問題が、「国民の意思を慮る」という方向の「忖度」によって、時に権力者の都合で実行されるからだ。「民主的」とか「民意」とか「国民」「市民」といった言葉が被せられる「忖度」の先に、忖度されたはずの側に利が回って来ない話。決まって、ずっとあとになって、「結局、本当は一体誰が得する話だったのか」ということになる。

 

 権力者が権力者に、また、権力者が特定の利益収受者に向けられる、分かりやすい「悪い忖度」だけが、私たちにとって問題ではない。権力者は常に「良い忖度」を巧妙に偽装する、ということなのである。

 

 司法改革をめぐっても、国家とそれを応援する人間たちによる、沢山の「忖度」が行われた。それは表向き「良い忖度」だ。例えば、弁護士増員政策をとっても、「もっと国民は弁護士を利用したいはず」「もっと身近になってほしいはず」という「忖度」が、弁護士の数が極端に少ないという論調を浮き立たせ、過剰になるまでの極端な増員方向を後押しすることになった。

 

 この社会に不正解決と泣き寝入りが溢れかえり、八割の司法が機能不全しているという、「改革」の中心にいた故・中坊公平氏の「二割司法」も、そうした機能不全の被害者を慮った、極端な「忖度」ということになるだろう。

 

 しかし、導入部分の欲求は国民のものであったとしても、ここまで極端なことを国民・市民が望んだわけではい。そもそもこの「改革」は、市民が権力を動かして突き上げて始めたものではなく、「上からの忖度」で始まったものなのだ。

 

 裁判員制度も国民が望んだわけではなく、しかも過去の司法判断への反省ですらなく、いつのまにか国民の「理解」を深めるのが目的となった。「民主的」ということが、何度も被せられ、出頭の義務化も、国民の権利と言いくるめ始めた。これも勝手な「忖度」といえなくない。

 

 前記増員政策に対する弁護士会内の反対・慎重論や、司法修習生の「給費制」存続に対して、「改革」推進派が浴びせた「国民に通用しない」論も、まさに国民に向った正確な説明抜きの「忖度」としかいいようがない。

 

 こうした「良い忖度」が利用される場面で、国民が納得する、あるいは暗黙の了承を与えてしまうのは、推進する側がその入り口部分の、国民の欲望につながる「あるべき論」という「正論」だけを、何度も掲げるという方法論によるところが大きい。そして、いうまでもなく、その部分には大マスコミが大きく加担している。入口部分の「正論」だけが何度も掲げられることで、その先の効果や、総合的にみたときの「改革」の「価値」について、国民側の思考停止を促してしまう。その「正論」が国民側の「欲望」につながっていれば、なおさらのこととなる。

 

 本当は成り立ちようがない「あったらいいな」という国民の中の欲望を刺激する「正論」。そうあるべきだとしても、現実的には成り立たないことや、成り立つのが困難なことは、国民も本来、冷静に考えれば、分かることかもしれない。ただ、「良い忖度」の強調によって、時に了承を与えてしまう。その時は、それが、「良い忖度」の目的になってしまっているのだ。

 

 前記したように、この結果的に社会が歓迎できない結果をもたらす「良い忖度」には、大マスコミや有識者という人たちが加担しており、彼らには当然、責任がある。ただ、それでも、といわなければならない。私たちは、やはり彼らの「良い忖度」に盲目的であってはならない。彼らは結果が出たあとに、必ずこういうだろう。「民主的な手続きを踏んだのだ」、そして、「国民が望んだのだ」と。

 

 やはり、私たちが試されているのである。



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