司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 ここまでのことをやってのける安倍政権と、それを許している今の日本の状況とは、一体、何なのだろうか――。改めてそんな気持ちになる。「共謀罪」法案成立。その幕引きは、参院法務委員会の審議を打ち切り、本会議で直接採決する「中間報告」という強行手段によるものだった。批判や疑問があることを百も承知のうえで、これほどまでにあからさまな審議や説明の必要性に対する無視・軽視が推し進められることに、言葉を失ってしまう。まさに、ここまでの横暴が許されるのならば、何でもありではないか。無力感とともに、恐ろしい時代に立ち会っているという実感がじわじわと襲ってくる。

 

 素朴な疑問が、頭から離れない。与党議員のなかに、仮に「共謀罪」の必要性を認識していても、さすがにこのやり方はまずい、という発想がない、ことについてである。何度廃案になってもいい、とことん議論しなければ、議会制民主主義のあり方そのものが問われてしまう、とは考えない、私たちの代表者たち。数の力、そして政権への支持率があれば、基本的に前記「何でもあり」が許されるとする見方。政権中枢のみならず、与党議員そのものが、横暴を許すというよりも、躊躇なく実践することそのものが、結局、安倍政権によって、「共謀罪」によって、国民に示された、紛れもない現実なのである。

 

 国会を延長すれば、森友・加計学園問題の追及にさらされてしまう。だから、審議を打ち切り、強行した。どんな言い訳を用意しようが、国民の目にはそう映る。私たちが、決して忘れてはいけないのは、それでもいい、という結論に政権と与党議員は立ったということだ。「テロ」や「オリンピック」を強行の理由にするのであれば、その筋違いも私たちは記憶しなければならない。安倍政権を守るために、これだけ社会を不安に陥れる、疑念が晴れていない法案審議に背を向けて、彼らが何を優先させたのか。私たちは、ここでも「忖度」を疑わなければならない。

 

 私たちの目の前にあるものは、まさに「歯止めなき社会」である。「歯止め」のない法律が、「歯止め」のない政治・国会によって成立してしまった。社会は、その深刻さをどこまて認識している、といえるだろうか。

 

 「共謀罪」と向き合うことになる未来に、それでは司法はどこまで「歯止め」として期待できるだろうか。「共謀罪」をめぐり、悪しき前例として引き合いに出された治安維持法。その「育ての親」が司法であった、といわれていることに関連して、内田博文・神戸学院大学教授が、あるインタビューで、「共謀罪」を抱えことになる現代司法の不安な現実を指摘している。

 

 ――なぜ裁判所は歯止めにならなかったのですか。
 「思想犯の動向については、主に思想犯の取り締まりを担当した思想検事の方が裁判官よりも詳しく、彼らの主張をうのみにしやすい状況がありました。治安維持法以降は格段に検察官の権限が拡大された点も重要です」
 ――現在は、どうでしょう。
 「現在は戦前以上に『検察官司法』が進んでいるのではないでしょうか。確定判決の無罪率は0.03%(2015年)にすぎず、量刑も検察官の求刑に近い判決がほとんどです。戦前でも昭和3年までは無罪率が2%を超えていたのと比べても、現在の刑事裁判は事実上検察官が仕切っているといっても過言ではありません」
「沖縄県で米軍施設建設の反対活動をしていた平和団体のリーダーが器物損壊容疑などで逮捕され、約5カ月も勾留された例は、明らかに運動つぶしのための予防拘禁に近く、憲法が禁じている正当な理由のない拘禁です。こうした勾留を認めたことからも、裁判所にチェック役を期待するのは難しいかもしれません」(「『共謀罪』のある社会」)

 

 共謀罪をめぐる論議で、治安維持法を持ち出すことに対しては、時代背景の違いなどを指摘して、嘲笑するような論調もある。しかし、内田教授が指摘するような、紛れもない司法の現実を踏まえなければ、これから私たちが直面する、本当の不安は伝わらないだろう。多くの市民は、まだそのこともよく認識していないだろう。司法がまた「育ての親」にならないとはいえない。

 

 私たちは、いま、まさしく「歯止めなき」状況に直面している。そして、それは私たちが許してしまった、結果的に選択してしまった状況なのである。このことを、「共謀罪」と向き合わなければならない国の住民として、今、まず強く自覚する必要がある。



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