「昔はね、裁判官と弁護士といえば、居酒屋に行き、隣同士には座らず、二つ席くらい空け、少々酒を交わしながら、『小声で、今回は頼みますよ』という風なやりとりをしたんだよ。まぁ、すべての弁護士がそれをやっていたわけではないんだがね」
そんなことを話し出したC弁護士の表情は、その内容とはうらはらに、なぜか緩やかなものだった。まるで、話すことで、何かから解放されるかのように。
。
「当時は、そんなことがあった時代だったんだ。しかしながら、今は、そんなことをしたら大変なことになるから、もうないけどね」
我に返ったようにC弁護士は、そう付け加えた。裁判官と弁護士が居酒屋でそんなやりとりをしていたという事実。C弁護士は、一体、私たちに何を伝えたかったのだろうか。C弁護士の語り口もあってか、ともすれば、それは何やら、単にかつての司法にのどかな時代があった、という風な感じを持ってしまいそうだったが、間違いなくこれは不適切な行動だ。「今なら」大変、ではなく、当時だって、こんなやりとりがあっていいはずがない。
私の、「弁護士と裁判官の癒着は存在するのか」というふりに対して、C弁護士が返してきたのが、このエピソードなのである。まさにこれが、彼のなかで思い当たった、「癒着」の過去の姿だったのだ。その情景は、まるでドラマのようで、私たちが想像できないものではなかった。しかし、それをベテランの法律家、本物の現職弁護士の口から聞いたことは、やはり驚きだった。
「えっ、いいんですか、そんな話して。よく考えたら、昔も今も、それは駄目でしょ?そんなことしたら」
思わず私は、そう口にしてしまっていた。
「まぁ、そうなんだがね。そういう時代もあったということだよ、僕らが若い時ね」
C弁護士は別に困った様子もなく、そう返してきた。それでも、私のなかでは、司法にはいまでもこういう体質があるのではないか、という疑念が膨らんでいた。同じ司法試験に合格し、同じ司法修習を経た同士。三者別々の道を進んでも、C弁護士自身がそうであるように、裁判官、検察官はのちに弁護士にもなるし、退官前でも裁判官と検察官の間では人事交流だって存在する。同じ釜の飯を食った仲間が、当事者が知らない法廷外で、具体的な裁判をめぐるやれとりをする。それこそ居酒屋での話にかこつけて――。そんな体質が、もし、過去にあったとしたならば、それは簡単に変わるだろうか。
「昔もあったのであれは、今もそんなことは、あるのではないですか」
私は、しつこくC弁護士にそう尋ねてしまった。
「いや、今はないよ。時代が変わったよ」
C弁護士は私のなかの疑念を読み取り、まずい、と思ったのか、今度はさっきよりもきっぱり否定した。
ただ、これも不思議なことだったが、このエビソートを聞いて、私は、この弁護士に、なぜか人間味を感じていた。変な言い方だったが、良くも悪くも、裁判には人が介在しているのだ。その生々しい現実の一端を私たちに正直に話してしまったC弁護士にも、ある種、人間味があるという気がしていたのである。
しかし、やはり「癒着」に対する私の中の疑念は消えない。彼がそれを分かっているのかどうかは分からないが、この過去のエピソードで、私のなかのそれは確かに強まっていた。
それから、C弁護士は突然、話を変え、私たちの一審裁判所の結果を見せてくれ、と言ってきた。