司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 専門的知見がない国民が判断を求め、その結果を「お墨付き」として受けとめる対象としての「権威」。その関係性の根本的な在り方を国民に問いかけたのが、福島第一原発事故であった、といえる。原発の「安全性」という点で、前記のような役割を果たした、その分野の専門家、マスコミ、そして司法。「神話」を形作ってきたとされことになった、それら「権威」との関係を、あの事故後、これからどうしていけばいいのかを、私たちはあの時、教訓として問われたはずだった。

 

 頼るべき存在であった「権威」に盲従ができない。彼らを疑い、自分たちで精一杯考えなければ、「安全」にたどりつけないという教訓。それはもちろん、同時に「権威」に乗っかって形作られた、自らの常識や観念を疑うことでもなければならない。

 

 この時点で、所詮それは無理、とする人もいれば、それでは何のための「権威」か、という方を強調する人もいる。しかし、残念ながら、それでも私たちは疑い、様々な声に耳を貸し、そして自分の中に形づくられたものにも、厳しい目線を向けなければならないのである。

 

 高裁段階で初めて、伊方原発の運転差し止めを命じた広島高裁の仮処分抗告審決定は、あの福島事故が遠くなりつつあるなかで、そのことをもう一度、私たちに思い出させるように突き付けているようにみえる。「世界最高」と政府が誇る基準に基づく原子力規制委員会の審査適合で、既に進められようとしている「再稼働戦略」を、今、私たちはどう受けとめているだろうか――。

 

 例えば、今回の高裁判断が、地震をめぐる新基準や適合判断の合理性を認めながら、問題視することになった火山の噴火リスク。これまでの司法が、このリスクを稼働の方向で飛び越えてきた根拠は、要はその期間・頻度だ。原則40年の原発稼働期間中に発生することの低頻度と、その点を国民が不安視・疑問視しないであろうという「社会通念」と括るヨミである。

 

 ところが、今回高裁は、阿蘇山の火砕流が160キロ先に到達した約9万年前の過去最大規模の噴火に着眼して、安全性立証の不十分さを指摘し、差し止めという結論を導き出した。

 

 ここに私たちは、「社会通念」と括られること、そして、ある意味、「権威」自身が、それを利用していることの怖さを知るべきではないだろうか。いうまでもなく、その「社会通念」そのものが、冒頭の「権威」への依存関係のなかで、形づくられているともいえるからだ。「9万年前の噴火」といわれれば、あるいは今でも、無視していい、こだわってはいられない記録としてとらえる人もいもしれないし、もし、「権威」そのものが問題視しなかった時点で、それは確固たる「社会通念」になってしまうかもしれない。

 

 しかし、一方で、司法を含めた「権威」が、これを無視してはいけない低頻度とみなせば、その結果の重大性を身に染みて分かっている、福島事故に直面した、われわれ国民は、その点にこだわる、少なくとも「安全」を疑い始めるかもしれない。それは、括られるような「社会通念」ではなくなるかもしれない、ということだ。私たち自身が、彼らが「社会通念」として括るものを疑う必要も出てくるはずなのである。

 

 つまり、司法判断が国の政策のみならず、私たち国民を立ち止まらせる役割を果たすもしれない、ということである。ここで立ち止まって考える。そして、もう一度、疑ってみる契機になる、ということなのである。その大きな役割を、今回、司法は改めて国民に示したようにみえる。

 

 「権威」の判断に、民意が左右されている、ととらえる人もいるもしれないし、実際には再稼働反対の強い世論があるなかで、それでも推進しようとする側からすれば、これ自体が解消しなければならない不都合な現実だろう。しかし、「あの日」を再来させないために、今、私たちにできることは、やはり、まず、その都度立ち止まり、疑うことであるはずだ。



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