司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 

 私が今でも敬愛する故・遠藤誠弁護士から、「反戦自衛官」という存在について教えられたのは、かれこれ30年以上前のことである。自衛隊内で、さまざまな圧力を受けながら反戦活動を行っている自衛官たちがいるということ自体、当時の自分には衝撃的であり、強く心を動かされたことを覚えている。

 遠藤弁護士は、反戦自衛官パージとして行われた転属命令を拒否した自衛官2人の行政訴訟の弁護を、無報酬で引き受けた。私は、彼ら二人に会い、当時編集長をしていたメディアで、インタビュー記事を掲載したこともあった。

 その遠藤弁護士が、彼らについて初めて語った中で、今でも心に焼き付いている言葉がある。

 「彼らは人民の兵士である。日本が再び戦争に傾斜する日には、大衆が反戦運動に立ち上がり、国家はそれを鎮圧にかかるかもしれない。しかし、人民の兵士である彼らは、決して人民大衆に銃を向けない。そうした命令は絶対に拒否するのが彼らなのだ」

 あの時も、そして今日に至るまで、彼らの存在とともに、最後に思い至ってしまうのは、実は、彼らがいわば盾のように、命令に立ちはだかり、守ろうとする、その私たち大衆側の想像力であった。あの時も、今も、私たちの国の多数の国民は、戦争傾斜という事態の中で、反戦自衛官が危惧していたような役割を、自衛隊が担うかもしれないことを、どこまで想像できているのかということである。

 自衛という言葉のイメージはもちろん、災害救助に尽力する彼らの姿からも、彼らが、われわれ大衆を、まるで「敵視」するように、向かって来る存在になる事態を、どれだけ人が、想像できているのだろうか、と。天安門事件のように、デモ隊に対して武力行使する自衛隊という図は、学生・大衆運動に対して投入された機動隊のイメージすら思い描けない世代ならばなおさらのこと、およそ非現実的なものでしかなくなっているのではないか、と。

 3月30日の衆院外務員会で日本共産党の穀田恵二衆院議員が追及した、「陸上自衛隊の今後の取り組み」と題された文書の問題。陸自が2020年2月に記者向け勉強会で配布したこの文書では、「予想される新たな戦い様相」の「グレーゾーンの事態」(武力攻撃に至らない手段で、相手国が自らの主張・要求の受け入れを強要しようとする状況=防衛省説明)として、驚くべきことに、「テロ」「サイバー攻撃」などと並べて「反戦デモ」が挙げられていたのである。

 この国会答弁でも、防衛省は、その後、この「反戦デモ」の記述を、「暴力を伴う暴徒化して非合法なデモ」と修正したと説明した。しかし、前記勉強会で参加者の指摘を受けるまで、彼らは「反戦デモ」をひとくくりに、テロ同様に、敵視する姿勢であったことは否定できないし、それが共通認識であったことも伺わせる。

 そうであればなおさらのこと、平和的なデモが、どこで「暴徒化」扱いされるかも分からないし、少なくとも、彼らが「予備軍」と判断したり疑ったりすれば、監視対象としてロックオンされる事態は当然考えられる。いうまでもなく、今回見たものこそ、彼らの「本音」「本性」であると疑って当然だからである。

 この問題を見て、やはり頭に浮かんだのは、前記私たち大衆の想像力だった。反戦自衛官が危惧し、遠藤弁護士が語った彼らが敢然と命令を拒否する事態が、防衛省の「本音」「本性」の中に見えた。しかし、それを多くの国民は、それをリアルに想像できているだろうか。「暴力」「暴徒化」という彼らの「条件付け」によって、まるで今言われる「陰謀論」に対するように、想像力を封印してしまわないだろうか。いやむしろ、それを企図して彼らが前記修正をしたという想像は働かす余地は果たしてあるのだろうか――。

 この事態に、一部メディア以外、多くのメディアの反応は低調であるという現実もある。およそ国民の想像力を喚起するものではなく、むしろそうした影響を避けたい「冷やかさ」すら感じる。彼らの感性を問題視すべきなのか、そもそも分かっていながら扱わない政治性をそこにみるべきか。

 こうした動きを、私たち国民は警戒できるのか。それには、武力を持つ実力組織がこちらに向かうことに対する、われわれの想像力と感性が、まず試されているといわなければならない。



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