自民党と日本維新の会の連立政権合意を背景に、国旗損壊罪の制定に向けた動きが進んでいる。しかし、いまだ立法事実の存在は、不透明と言わざるを得ない。連立合意は現行刑法が外国国旗の損壊のみ犯罪としている状況を「矛盾」とし「是正」を打ち出し、この点が一般にも必要論として強調されているが、外国国旗についての立法趣旨は、純粋に対外的・外交的法益の保護。日本国旗は、当然、この文脈には入らない。
そもそも日本国旗の損壊も、既に現行法で対処できる(刑法・器物損壊罪、軽犯罪法、威力業務妨害・不退去罪)。しかも、国旗損壊の事件が頻発しているわけでもなく、現行法で起訴・処罰できなかった事例が蓄積されているわけでも、被害者の救済が不可能な事態が生じている、というわけでもない。
では、なぜ、立法が推し進められようとしているのか。ここで、まず、国民はこの立法の気味悪さに気付き、立ち止まるべきだろう。つまり、表に出されていない、あるいは出せない意図がそこにあるのではないか、と。極めて表面的に見えることで推察すれば、高市首相の個人的動機、要はレガシーづくりと、コア保守支持層へのアピールといったことが、すぐに思い浮かぶ人もいるだろう。しかし、それもさることながら、この立法の先には、もっと深刻な世界が広がっているといわなければならない。
それは「愛国の強制」と、さらにその先に現れるだろう「通報社会」である。この立法によって、国旗が象徴する国家への「愛」が強制される(国旗を大切にせよ、という社会的規範として)。だが、問題はそれが内面化して、国民の多くは、それへの従属を「強制」と処理せず、むしろ「むしろ自分がそうしたい」という能動的感覚に変換する可能性がある。
私たちの社会の姿として、思い出すべきなのは、コロナ禍に登場したマスク警察や、ワクチン接種への同調圧力である。彼らは、決して強制されたとは思っていない。むしろ自分が正しいことをしていると確信している。この国旗損壊罪の先に生み出される恐れがある、通報社会化とはまさに同じ顔をしているはずだ。私は、強制されて通報するのではない。国旗(国家)を大切にしない者を許せないから、自分の意志で通報するのだ、と。
しかも、認知も書き換えられる恐れがある。法律が制定される前は、国旗を燃やす行為は、政治的表現として認知される余地があっても、制定後は同じ行為は「犯罪者の行為」として認知され、通報者は自分を「正義の執行者」として位置付ける。もちろん、強制されている意識は、みじんもない。
つまり、一番恐ろしいのは、強制されているという意識なしに、愛国の正義を自ら選び取った確信の中で、通報が行われることである。法律は、その確信に「あなたは正しい」という国家のお墨付きを与える装置として機能する。かくして、我々は通報社会を自ら作り出し、気が付けば、その住人になっている、ということである。
さて、問題は、この国家損壊罪の先に広がる世界について、この法律を制定しようとしている側がどこまで確信的なのか、自覚的なのか、ということへの推測である。これが許されるのは、とりもなおさず前記したように、この罪の立法事実が極めて不透明であるからにほかならない。
彼らは、通報社会が到来する可能性を想定できないだろうか。高市首相の中では、まず、立法事実と目的の論理構造が、立法事実がないということに拘っているわれわれと違う形で組み立てられているかもしれない。頻度は問わず、国旗が傷つけられる行為は発生し、それは許しがたく、罰則がないのはおかしい――。被害の頻度も現行法の不十分さといった立法事実の要件は、そもそもここで問題として認識されていない。
そうなると、この先の認識も、多分に前記してきた深刻な世界とは違うものになっている可能性を考えなくてはならなくなる。要は「通報社会」の到来を目的にはしていないが、われわれが考えるような深刻なものとは思っていない可能性。あるいは政治家として、保守支持層が「これで通報できる」ととらえることまでも(もちろん表向き認めることはなくても)、計算には入っている可能性。
百歩譲って、それを「社会統制」と自覚することもなく、「国旗を大切にする社会になればいい」という素朴な思考と「支持層が喜ぶ」という政治的計算が無反省に合体しているのかもしれない。あるいは「愛国心が高まるのも、相互に意識し合うのもよい社会だ。それの何が問題なのか」という、価値観の独善的確信として。しかし、どう差し引いても、この法律の効果を予見できない、あるいはそこに慎重な対応ができない人間の立法能力には、問題があるといえないだろうか。
どこまで確信的なのか、自覚的なのかという疑問の先に、この国に起きたコロナ禍の同調圧力社会化の現象を知らないわけがない、この法律の制定推進者たちが、それをまるで何事でもないような風である現実を重ね合わせると、どうしてもそこに「未必の故意」という言葉が浮かんできてしまう。高市首相は、あるいはこれを「意地悪な推論」というのかもしれない。しかし、あくまで立法事実が示されないまま、進められるこの法律の気持ち悪さに、そうした推論を許すものがあることは、紛れもない事実なのである。