「誰一人取りこぼさない」。こうした言葉をこの10年でやたらに目にするようになった。SDGsとともに、包摂社会のイメージを大衆の感情に訴えかけたレトリックである。もちろん、ここには反論の余地のないような「正義」を読み取っている人も少なくないとは思う。
しかし、その一方で、このレトリックにはネット上なので、「偽善」、「欺瞞」、「反論を許さない美辞麗句」といった趣旨の言葉も聞かれる。弱者に未だ守られているという実感はない、という見方もある。この言葉の向こうの現実は、一体、何を「取りこぼしている」のだろうか。この言葉に大衆が感じ取っている違和感の正体とは、何なのであろうか。
もっとも気になるのは、この言葉には、明確な主語が見えないことである。受動態的な結果の状態を語るこのレトリックは、一体、「誰が取りこぼすのか」「誰が取りこぼしてきたのか」という、加害の主体が直接的に語られない。制度の欠陥や資源配分の不作為によって、人が困窮に堕ちていく過程は語られず、「落ちない」という状態が目標に設定されているようにとれる。
加害の主体が語られない、ということは、とりもなおさず、責任の所在が明かにされていない、ということを意味している。それは嫌な見方をすれば、この言葉のもとに意図的にぼかされ、それが曖昧なまま、大衆の努力いかんに、いつの間にか転嫁されている構図にとれてしまう。
このレトリックを発する主体として、まず挙げられるのは、国家と企業だろう。国家にとっては実質的再分配も累進課税強化も社会保障の拡充も、政治的抵抗は大きく容易ではない。その一方で、理念の表明は、「やっている感」を安価で容易に生産できる。一方、企業にとって、CSR、SDGsバッチ、ESGは、ブランディングコストであり、時には投資家向けの評価指標として資金調達に直結する可能性がある。つまりは「カネ」である。
さらに加えて国際機関、専門職団体なども挙げられる。営利を表向き掲げない分、利害構造は見えにくいが、予算、存在意義、会員の職域の確保には、包摂のレトリックに利用価値があるのは変わらない。
美辞麗句を掲げるコストは、実質的再配分コストよりはるかに低いとみるべきだろう。既存の権力構造や資源配分に一切具体的に触れずに完結する言語行為。対して実際の弱者保護には、予算を動かし、既得権益を再編し、時に自らの配分を減らさなければならないかもしれない。つまり、理念の表明だけの選択となれば、そこには彼ら側の合理的な選択という言葉が当てはめ得るということになる。
もちろん、大衆の中にも擁護論はある。最も典型的なものは、「何事にもカネはかかる、何か悪い」式の反論である。もちろん、この擁護論には一定の理もあるだろう。だが、同論が成立するのは、「カネが動く」こと自体によってではない。いうまでもなく、問われるのは、そのカネが理念の実現に見合った先に流れるのか、流れているのかの一点である。使途の内訳が、検証可能で明らかになって、この擁護論の正当性は成り立つ。
しかし、その検証はきちっと行われているだろうか。行われる見通しに立てるだろうか。理念の表明は、即座に可視化できても、事後の検証は不透明、理念そのものだけが、「道半ば」論に助けられて、無傷のまま生き延びることにならないだろうか。安価で検証されない理念表明は、結局、新たな市場を生み出す土壌の役割をしっかり果たすという、カラクリではないだろうか。
「いいことに加担している」という感覚に、人が安らぎを求めてしまうこと自体は、自然な心理かもしれないし、それ自体、咎めるようなことではない。問題は、この自然な心理が、検証コストの高さの現実の前に、いつまでもフェアに検証されないまま、利用され続けることにある。隠れた意図に利用可能な善意の動員である。
「誰一人取りこぼさない」という言葉に、冒頭のように大衆の感覚的に否定的な言葉を並べられることには、それが嘘だからという以前に、その言葉が本当かどうかを誰も最後までフェアに確かめようとしないようにとれる現実が、反映しているように思えてならない。