司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

〈被告人は二の次〉

 被告人に対し裁判員裁判を受ける権利を与えることによって、国家は被告人の裁判を受ける権利を完全に保障したものであって、裁判官裁判を受ける権利を与えなくても憲法上許されると言い切るためには、裁判員裁判が裁判官裁判と比較して、公平性、適正性、実体的真実発見性、被告人の基本的人権の保障性において裁判官裁判よりも常に絶対的に優ることが実証されなければなるまい。

 しかし、安念教授も言及するように、そのようなことは有り得ない。裁判員法の定める秘密主義の下ではその科学的正当性さえ証明することは不可能である。それが被告人のための制度として定められたものでない以上はむしろ当然のことである。

 さらに重要なことは、裁判員法は刑事訴訟法の特則を定めるものでありながら、刑事訴訟法の目的である「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うし、事案の真相を明らかにし刑罰法令を適正且つ迅速に運用実現する」ことに資することを目的とする旨の規定を置いていないことである。

 このことは司法審意見書が「個々の被告人のためというよりは、国民一般にとってあるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである」と述べていること、つまり「この裁判員裁判は刑事裁判を良くしようとするものではありません、狙いは別のところにありますよ。」と言っているのと同じことを消極的に表現していることなのである。

 〈諸外国の国民参加とは出自も性格も違う〉

 近代的な、裁判への国民参加の最初の形態はアメリカの陪審制であり、それは、アメリカ植民地に移住した人々が、その移民に対してなされる母国イギリスの圧政に反発して設けられ運営されてきたものであり、それ故に陪審制が国民の権利として定着して来たものであることは周知のことである。独仏伊などで行われているいわゆる参審制も、その変形としてその流れを汲むものであることも明らかである。

 つまり、司法への国民参加先進国と言われる国の司法への国民参加は、歴史的・理念的には、国民が権力に反発し、国民を権力から守るものとして発展してきたものである。今回我が国で制度化された裁判員制度にはそのような性格は露ほども存在しない。もともと国民が求めたものではないからである。

 裁判員法の国会審議においても、国民の公共意識の涵養などの効果も期待され(野沢法務大臣の159回国会参議院法務委員会発言)、前記の山崎政府参考人の「社会的秩序や治安とかの安全を国民みずからも参画して・・・意識改革をしていただきたい」という発言(「法律のひろば」平成17年6月号)に見られるように、その狙いは被告人のためではなく国民の公共意識の醸成が主たる狙いであり、司法審の審議の中においても、水原委員をして「裁かれる立場から言うならば、トレーニングの場として裁判が使われるようになったならば、大変な問題になるだろう。場合によっては裁判を受ける側にとっては非常な悲劇になるんじゃないか」(第32回)と言わしめるような状況であった。

 つまり、裁判員制度は、諸外国の司法への国民参加とは出自も性格も全く異なるものだということである。

 国民に対する強制的公共意識醸成の場、社会教育・トレーニングの場、意識改革の場として裁判を利用する、そこに被告人を引っ張り出すという構図が裁判員裁判の本質なのである。

 指定事件の被告人は未だ犯人として確定している人間ではない。犯人として扱うことの許されない無罪の推定を受けている一般国民である。また、指定事件は単に国民の関心が高く社会的にも影響の大きいというだけで選別されたものである(意見書Ⅳ、第1、1⑶)。その被告人は他の刑事事件の被告人と本質的に区別され得るものでもない。

 前述のように、我が国の刑事裁判の殆どが本来裁判の担い手である裁判官によって行われているというのに、指定事件の被告人のみがその機会を奪われるということは憲法14条の社会的身分による社会的関係における無用の差別であり、且つ憲法13条の個人の尊重の理念にも反している。



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