〈自白撤回根拠の立証を課す問題〉
刑事裁判の鉄則は「疑わしきは被告人の利益に」であるが、このような冤罪事件が今もなお発生しているということは、その重要な原因の一つとして、裁く者が、被告人に「疑わしき」を晴らす責任を事実上押し付けているからではないかと思われる。
つまり有罪の立証責任は訴追者にあるとはいうけれども、被告人が一度でも自白してしまうと、その自白撤回の根拠、自白内容が虚偽であることの立証責任を被告人に課すことが事実上裁判の構造的なものになっているからではないかと考える。
憲法38条には、「【第1項】何人も、自己に不利益な供述を強要されない。【第2項】強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。【第3項】何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、または刑罰を科せられない。」と定める。刑事訴訟法319条にも同旨の規定がある。
前述の4つの死刑冤罪事件は、いずれも被疑者に対し「強制、拷問又は脅迫」をして自白に追いやった事件である。我が国では「自白は証拠の王」と評され自白を得るために過酷な取調べが行われてきたことから、帝国憲法23条が「日本臣民は法律に依るに非ずして逮捕監禁審問処罰を受くることなし」(ひらがな表記)と定めていたものを現行38条の規定に変容させたものである。
〈冤罪をなくすために〉
しかし、私は、このような死刑冤罪事件、そして今もなお冤罪を主張して再審を求める事件の多いこと、刑確定までには至らなくても八海事件のように被告人らが最終的に無罪判決を確定させるために再度の上告まで要求されるような事件の存在を知ると、結論的に自白の証拠性を正面から認めるこの憲法の規定では、冤罪防止の効果には限界があるのではないかと考えるようになった。
憲法38条第2項を「自白は、本人が任意にしたことの明白な場合を除き、これを証拠とすることができない」とでも改めるべきではないか、つまり強制、拷問、脅迫のあることの立証責任を被告人に課し得る余地の全くない規定に改めるべきではないかと考える。
もちろん、そう容易に憲法を改正することはできないから、現在の裁判において、裁判官は、その私の試案のように現行憲法を解して自白に向き合うようにすべきではないか、極端な言い回しになるが、どの事件も否認事件のつもりで証拠に向き合うべきではないかと思う。
ところで、前記の朝日新聞の記事の中に、「人が人を裁くのは、やおいかんですよ」という免田さんの言葉がある。「『やおいかん』は、熊本弁で『簡単ではない』という意味」とのことである。