司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

夜、遅い時間になると、今も彼の姿がよみがえってくる。入廷時、もうすぐ釈放されると確信と自信に満ちて、裁判官3人を見据えた彼の姿。その彼が死刑を言い渡され、がっくり肩を落とし、うなだれたあの姿――。「袴田事件」の一審死刑判決に関与し、40年を経て2007年に当時の「無罪心証」を告白した熊本典道・元裁判官の印象的な言葉である。同元裁判官は、1日たりとも「彼」袴田巌死刑囚のことを忘れられない日々を続けているのであった。

 熊本裁判官は、350ページに及ぶ無罪の判決書を書いていた。しかし、合議の結果、2対1で有罪が決まってしまった。「人殺しの仲間に入らんといかんのか」。彼は、そういう心境だった、という。彼は、主任裁判官として、裁判所の慣例に従い、心ならずも自らの判断とは正反対の内容の判決文を、高裁での逆転を期待しながら、清書することになる。

 彼は言う。

 「(裁判官は)その人間の全人格的な判断が有罪か無罪かを決めるものだと思っている。ただ、合理的な疑いが残るものは有罪としてはならないという、たった一つだけ足かせがある。ところが、これが実は人間によって、裁判官によって全然違うことがある」

 これが、まさに熊本裁判官が直面した現実だった。

 当時、熊本裁判官はじめ担当裁判官たちは、袴田氏を真犯人とする大量のマスコミ論調に包囲されていた。活字になっていたものすべてに目を通し、昼夜、ラジオ、テレビで流されていた報道に接する裁判官が、そうした論調の影響を受けることを熊本元裁判官は否定しない。ただ、「自分の身を律する厳しさを持っているかどうか」だと。

 判決という結論で終わらない「人を裁く」ことの重さ。同元裁判官が背負い続けるそれを、司法に参加する市民は、どこまで理解しているだろうか。また、理解しなければならないのだろうか。「自分の身を律する厳しさ」は職業裁判官に任せておく、というわけにはいかない。

 それだけではない。無罪心証のまま、有罪と決まれば、その前提で量刑に参加させられる市民は、自らの信念として自身の判断を、後日、熊本元裁判官のように、社会に公表することも許されていない。あるいは、元裁判官のような葛藤を生涯背負い続けることにもなる。

 裁判員制度が導入されるにあたり、「人を裁く」ことの重さ、とりわけ死刑への関与について、あらかじめそのことが国民に十分に投げかけられたかどうかは疑わしい。制度参加への国民の消極姿勢が明らかになっていたこともあり、このテーマは、それに拍車をかける、やぶへびなものとして、大マスコミを含め、制度推進派側がそれを意図的に後回しにしたと受け取れる面もある。

 そもそも制度の効用だけが伝えられてきた国民だが、この「人を裁く」ことの厳しさ、死刑を課した事実を生涯背負う過酷さこそ、自らそれを職として選んだ、職業裁判官の自覚のなせることと国民が受け取っていても、何も不思議ではないし、そこにプロへの期待や信頼が乗っかっていたとしてもおかしくはない。まして、そうした国民のとらえ方が、「お任せ司法」とか「統治客体意識」などという扱いをされるとは、今でも多くの国民は思っていないのではないだろうか。

 死刑判決について、全員一致を要件とすることを盛り込んだ裁判員法改正案を日弁連が検討していると伝えられる。もし、この改正が実現したとすれば、あるいは熊本元裁判官と同じ運命になることを、国民は回避できるかもしれない。しかし、それでも同元裁判官が投げかけた「自分の身を律する厳しさ」という課題は、この制度を強制されている国民にずっとのしかかり続けることになる。



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